珍奇ノート:悪毒王の伝説



『百合若説経』


都の六条に内裏を建てる時、朝廷の東西南北に長者の御殿を立てた。中でも東の朝日長者は最も位が高く、10人の子持ちであった。一方で西の二条の館に住む萬の長者は山のように財宝を持っていたが、跡継ぎの子が居なかった。ある時、この二人の長者が宝比べをすると、萬の長者は「百の倉より子が宝」ということで負けてしまった(ただし、この萬の長者(萬能長者)は九州臼杵の炭焼小五郎を養子にしたという説もある)。

その後、萬の長者は夫婦で清水の観世音菩薩に子宝の願掛けをすると、妻が"観音様が袂に百合の花を入れた夢"を見て、しばらく後にめでたく懐妊した。それから男児を出産すると、長者は若君に百合若の大臣と名付けた。百合若は大きくなると鞍馬山の天狗に預けられ、そこで兵法を授かって文武に優れた若者になった。

百合若が15歳の時、将軍の一人娘の輝日姫が美人だという評判を聞いて、館に忍び込んで契りを結び、館から抜け出すときに女装して短尺売りを装い、姫を葛籠に入れて外に連れ出した。これに喜んだ両親は祝言を上げようとしたが、将軍の許しは得られなかった。

その後、内裏の北西に妖しい光が射したので、博士が占うと「芥満国(けいまんのくに)の悪毒王(あくどこお)の目の光である」という結果が出た。悪毒王は身の丈1丈6尺(約4.85m)もある三面の鬼神であり、5万の小鬼を引き連れた鬼の大将であった。これを聞いた将軍は鬼退治をすることにしたが、恐れて誰も大将になろうとしなかった。そこで評議が行われ、その中で「百合若大臣はまだ15歳の若者であるが、観音菩薩の化身であることに間違いない。また天狗から秘密の兵法を授かった者でもある。この者の他に大将はありえない」という形で話がまとまり、百合若大臣が大将に任じられることになった。

そこで将軍も「芥満国の鬼を討伐して帰国すれば、輝日をお前の妻にすることを許し、日本の将軍として祝言を上げさせよう」と言ったので、百合若は「百人引きの大弓に鋼の弦を打ち込み、1尺8寸の大雁股を2本揃えて欲しい」と言って大弓を用意させ、副将に式部太夫兄弟を副えて芥満谷に攻め込んだ。

こうして百合若一行が芥満国に着くと、そこで悪毒王を倒し、小鬼どもの悉く退治して大勝利を収めた。しかし、百合若が芥満国の小島で昼寝して戦の疲れを癒やしていた時に、式部太夫兄弟が黙って出航して日本に帰ってしまった。こうして百合若は島に置き去りにされてしまったが、都で輝日が百合若の愛鷹のみどり丸を放ったので、やがてみどり丸が百合若の元にやって来た。そこで百合若はみどり丸に文を託したので、輝日は百合若の無事を知ることができたという。

ある夜、宮崎浦に住んでいる太郎、次郎、三郎という漁師の枕元に清水観音が立ち「芥満国で網を引くならば、宝の山を引かせてやろう」との御告げを下すと、漁師たちは観音の御告げに従って芥満国に向かった。その後、百合若は漁師たちと出会って日本に帰国することになった。

この後、百合若は式部太夫の元を訪ねると、式部太夫のババが「どこの者かは知りませんが、痩せ馬飼いと申す片目が潰れた者が奉公を望んで参っています」と言って式部太夫に伝えると、百合若は式部太夫と対面することになった。そこで百合若は「我は百合若である」と宣って弟の式部次郎に矢を射放ち、胴を中央から真っ二つにした。そこで兄の式部太郎が許しを乞うと、百合若は後ろ手に縛って戒めて7日7晩の間 晒し者にし、それから首を落として処刑した。

それから百合若は88歳まで生きてその生涯を終え、後に豊後国の由生原(柞原)に八幡大神として現れた。また、妻の輝日も宇佐八幡宮の姫神となって現れたという。

百合若大臣の鬼退治伝説(長崎県壱岐市)


平安時代、豊後国に"万の長者(まんのちょうじゃ)"が住んでいたが子供がいなかった。そこで長者夫婦は神に百合の花を備えて子宝を祈願していると、やがて1人の男児を儲けた。両親は男児を百合若(ゆりわか)と名付けて大切に育て、将来は立派な武士にしようと思って、後に鞍馬山の天狗の元で修行させることにした。

修行を終えた百合若が鞍馬山を下りる時、天狗は「これを使えばどんな強敵にも勝てるだろう」と言って日の丸のついた鉄扇を与えた。その後、百合若は嫁を取ろうとして48度にわたって見合いをしたが気に入る女が見つからず、結局 六条内裏から春日姫という姫君を強奪して嫁にした。

この後、百合若は大臣になった時、壱岐には5万を超える鬼が棲み着き、人里の農作物を荒らすなどの害を為していた。この鬼たちの頭目を悪毒王(あくどくおう)といい、勇力な手下として 風よりも足の速い疾風太郎(はやてのたろう)、遠くのものを見通せる遠見次郎(とおみのじろう)、大石を遠くに投げられる飛礫三郎(つぶてのさぶろう) の3人がいた。百合若大臣はこの鬼たちが悪事の限りを尽くしていると聞き、壱岐の島に鬼退治に向かうことにした。

百合若大臣の船が壱岐の島に近づくと、見張り役の遠見次郎が見つけて、それを疾風太郎が走って黒崎半島の悪毒王に伝えると、悪毒王は鬼どもを黒崎半島に集めて戦に備えた。百合若大臣の船が島に近づくと、鬼どもは大きな風袋で大風を吹かせて船を転覆させようとしたが上手くいかなかったので、今度は船を目掛けて石を投げつけると当たった船は沈んだが、先頭を行く百合若の船は沈めることができなかった。

そこで、疾風太郎が百合若の船を狙って大石を投げつけると、百合若は天狗の鉄扇で鬼どものいる島まで跳ね飛ばし、次に遠見次郎が大石を投げたが、百合若はこれも跳ね飛ばした(この2つの石は太郎礫と次郎礫と呼ばれて今も残っている)。すると、飛礫三郎が角のたくさんついた巨石を持って思い切り投げると、それは天地に7回ずつ舞い上がって雷のように落ちた。だが、百合若大臣はそれを軽々しく受け取ると、記念に持ってかえることにして船の先に置いた。

こうして百合若大臣は島に上陸すると、鬼どもを次々と斬り殺していき、最後に悪毒王と戦った。悪毒王は大きな金棒を振り回して襲いかかったが、百合若大臣はそれを物ともせずに悪毒王の首を打ち落とした。すると、悪毒王の首は「無念無念」と言いながら転げ回り、やがて空高く舞い上がって見えなくなってしまった。この時、悪毒王は天上の国に頭と首を繋ぐ薬を取りに行ったのであった。これを知った百合若大臣は悪毒王の身体を岩陰に隠すと、そこに薬を咥えた悪毒王が帰ってきた。

そこで悪毒王は身体を探し回ったが見つからないので、百合若大臣の兜に噛み付いて噛み破ろうとした。この兜が7重まで噛み破られた時に百合若大臣が「この兜は14重ある。まだ7重もあるぞ」と叫ぶと、悪毒王の首は力尽きて死に絶えた。これを天上の鬼たちが見ていたので、百合若大臣が「壱岐の島の枯木に花が咲いた時と、炒豆に目が出た時に限り降りて来い」と叫んだ。これにより、毎年草木が芽吹く桃の節句の頃になると、鬼が天上から降りようと身構えるようになったので、壱岐の人々は鬼が降りてこないように鬼凧揚げをするようになったという。

この後、百合若大臣は鬼退治に疲れて寝島で寝込んでしまった。これを見た味方の別府兄弟は百合若大臣を残して豊後国に帰り、百合若大臣は戦死したと嘘の報告して、たくさんの褒美を貰い、百合若大臣の国主の座を奪ったという。一方、島で一人で目覚めた百合若大臣は驚いて、辺りで船を探したが見つからないので そのまま島で過ごすことにした。すると、そこに木の葉隠れという片目の小鬼が現れて大臣の世話をするようになった。

そこで二人は串山半島の洞窟に住むことにし、食事は魚介類や海藻または木の実などを材料にして、小鬼が口から火を吹いて調理して出したという。このような生活が1年ほど続いた時、沖合に1隻の船が通ったので百合若大臣はこれに乗せてもらって国に帰った。そして、裏切った別府兄弟を処刑して国主の座に戻ったという。なお、小鬼は島に残ったとされ、天手長男神社には今でも小鬼の墓とされる塚を見ることができる。