珍奇ノート:阿久良王(阿黒羅王)の伝説



『瑜伽山縁起』


平安時代の延暦年間(782~806年)、児島の由加山に棲んでいた悪鬼が人々を苦しめていた。このことが都の桓武帝の耳に入ったので、帝は鬼を討伐すべく征夷大将軍の坂上田村麻呂を向かわせた。それから都を出立した田村麻呂は、通生の浜から児島に上陸した。ここの丘上には神宮寺八幡院(現・通生般若院)があったので船着き場も設けられていたという。田村麻呂は神宮寺八幡院に籠もって7日7夜にわたって悪鬼調伏の祈願を行った後、竜王山を越えて由加山に向かった。

由加山までの道中、田村麻呂は様々な神仏の加護を受けられたという。その一つに、田村麻呂の一行が谷間で冷水を浴びようとした時にたちまち湯に変わったという話がある。これが児島通生の湯屋谷である。また、一行が竜王山の南麓の深い森に分け入って空腹に悩みながら休憩していると、異相の老人が現れて食物を出したという話もある。この場所に田村麻呂が箸を納めたので「箸置の宮」が建てられた。

こうして一行が竜王山の東麓に到着すると、開けた森の先に海上に浮かぶ由加山が見えた。そこで一行が留まっていると、先程現れた老人が田村麻呂に霊酒を授けて「これは人が飲めば薬となり、鬼が飲めば毒になるぞ」と教えた。この場所には「銚子の宮」という祠があり、今は「今宮明神宮」と呼ばれている。

それから一行は由加山に入り、悪鬼との戦いに備えた。この悪鬼というのは阿久良王(あくらおう)という鬼の頭目で、妻の鬼と、東郷太郎、加茂二郎、稗田三郎という三人の子供の鬼を連れていた。このうち、最初に稗田三郎が現れたので田村麻呂は戦って降伏させ、阿久良王の住処まで道案内させた。しばらくして住処に近づくと、女鬼が酒を飲んでいたので田村麻呂は老人から授かった酒を勧めて、女鬼が寝入ったところを斬り伏せた。

これを知った阿久良王と子供の鬼は、由加山の妙見山を本拠として一行に攻めかかってきた。それから田村麻呂は阿久良王らと7日7夜の間 戦い続けた。鬼たちは霧のように散り、霞のように消えるという変幻自在の妖術を使ったが、田村麻呂は本荘八幡宮や瑜伽大権現の加護を得ていたので、激しい戦いの末に阿久良王らを討ち取ることができた。この後、田村麻呂は鬼の首を銅器に納め、由加山の西の岩窟に埋めた。ところが、鬼の魂はたちまち75匹の白狐に変化した。そこで白狐は「今までの罪滅ぼしに これからは瑜伽大権現の眷属となり、民衆を助けることにしよう」と言ったという。

今でも由加山には「鬼塚」と呼ばれる方墳がある。また、妙見山は「鬼の棲家」で、由加山の南には女鬼が化粧をしたという「化粧場」や「鏡池」があり、鬼が稚児に化けたというところは「稚児の池」と呼ばれているという。

阿久良王の伝説


桓武天皇の御代(781~806年)、吉備国児島の由加山に阿久良王という妖鬼が棲んでおり、東郷太郎・加茂二郎・稗田三郎という3人の家来を連れて、略奪や誘拐などの悪事の限りを尽くして良民を苦しめたので、天皇は坂上田村麻呂を妖鬼討伐のために派遣した。

田村麻呂は船で吉備国に向かい、通生の浜に船をつけて児島に上陸すると、そこにあった神宮寺八幡院に7日7夜にわたって参籠し、そこで悪鬼調伏の祈願を行った。また、児島で最高峰で霊峰と言われた神の峰に向かい、その麓の円通寺の竜王に戦勝祈願して頂上付近に金の甲(鎧)を埋めた。これにより、この山が「金甲山」と呼ばれるようになったという。

それから田村麻呂は家来を連れて由加山に入ったが、途中で断崖に阻まれて進めなくなった。そこで神に祈ると、老人が現れて網を降ろしてくれ、食糧が尽きると再び老人が現れて食物を与えてくれた。そして、鬼の住処に近づいた頃に老人が田村麻呂に霊酒を授けて「これは人が飲めば薬となるが、鬼が飲めば毒になるぞ」と教えて消えていった。

一行は一連の出来事を神の加護と捉えて祈りを捧げると、鬼の住処に向かっていった。すると、そこに1人の鬼が現れたので田村麻呂は切り合って戦ったがなかなか勝負がつかなかった。そこで瑜伽大権現に祈願すると鬼は呆気なく降参した。その鬼は稗田三郎といい、元は人間だったというので、田村麻呂は三郎に鬼の住処まで道案内させることにした。

それから鬼の住処に着くと、そこに酒を飲んでいる女鬼がいたので、田村麻呂は老人から授かった霊酒を勧めて酔い潰して退治した。これを知った阿久良王は東郷太郎・加茂二郎を連れて田村麻呂に攻めかかり、阿久良王は変幻自在の妖術を使って戦い、田村麻呂は神仏の加護を得て戦ったので、その戦は7日7夜にわたる激しい争いになったが、やがて田村麻呂が勝利した。

阿久良王は死に際に「これまでの罪滅ぼしとして瑜伽大権現の眷属になり、人々を助けたいと思う」と言って息を引き取り、田村麻呂が首を落とすと、遺体は金色の光を放って飛び散り、たちまち75匹の白狐に変じた。それ以来、白狐は瑜伽大権現の神使として人々を助けるようになったという。

阿黒羅王の伝説(玉野市の伝説)


桓武天皇の御代(781~806年)、玉野の地に阿黒羅王という悪鬼が棲んでおり、良民を苦しめて貢物を横取りするなどの悪事を働いていたので、天皇は坂上田村麻呂に鬼退治を命じた。田村麻呂が悪鬼と交戦すると、悪鬼は七人の子と共に昼夜問わず激しく抵抗したので、田村麻呂は瑜伽大権現に7日7夜かけて悪鬼調伏の祈願を行った。

それから、田村麻呂は悪鬼が酔い潰れたところを攻めて殺そうとすると、悪鬼は死に際に今までの悪事を懺悔して、今後は瑜伽大明神の眷属になって人々の助けになりたいと願った。そして、田村麻呂が悪鬼の首を落とすと、その死骸は金色に輝いて弾けるように飛び散り、それが75匹の白狐になった。

それ以来、白狐は瑜伽大権現の神使になり、瑜伽大権現に祈願すると盗難に遭った物が返ってくるという御利益を得られるようになったという。瑜伽大権現は今は由加神社に鎮座している。

蓮台寺の伝承


桓武天皇の御代(781~806年)、児島地方に妖鬼が棲んでおり、その頭目を阿黒羅王といった。阿黒羅王には東郷太郎、加茂次郎、稗田三郎という3人の子がおり、蓮台寺から僧侶を追放して此処を根城とし、日に日に勢いを増していったので遂に参詣者は絶えてしまった。

この妖鬼は変幻自在だったので、岩陰や木陰に隠れて道を行き交う人々から金品を略奪したり、山奥に連れ込んで殺したり、時には綺麗な娘に化けて若者を誘拐していたという。やがて被害が大きくなったので、恐れた人々が帝に奏聞すると、坂上田村麻呂に妖鬼征討の勅命が下された。

田村麻呂は数千の軍兵を引き連れて児島に渡り、妖鬼を討伐しようとしたがなかなか上手くいかなかった。そこで、7日7晩かけて瑜伽大権現に戦勝祈願することにした。すると、満願を迎える日の夕方になぜか稗田三郎が降伏してきたので、田村麻呂は三郎を殺さずに自分に仕えさせることにした。

後日、田村麻呂は酒宴を催して阿黒羅王を招いたところ、阿黒羅王がやってきたので酒をどんどん勧めて酔わせた。そして、阿黒羅王が酔い潰れてしまったところを一気に攻めて、阿黒羅王の首を討ち取った。その後、田村麻呂は祈願成就を感謝して荒廃した蓮台寺を修繕し、自身の武運長久の祈願所に定めた。

また、阿黒羅王の骨は壺の中に納められて岩窟の中に埋葬された。それが今の「鬼塚」である。こうして供養を受けた妖鬼たちは たちまち75匹の白狐となって瑜伽大権現の使いとなったという。

加茂神社の伝承


桓武天皇の御代(781~806年)、備前国の児島地方の加茂宗津に阿黒羅王という鬼が棲んでおり、酒を食らっては村で暴れたり、貢物を奪い取ったりして人々を悩ませていたので、天皇は征夷大将軍の坂上田村麻呂に鬼退治を命じた。

備前国に下ってきた田村麻呂は、東郷太郎・加茂二郎・稗田三郎という三人の者が阿黒羅王と親交があると聞いて、加茂宗津を治める加茂二郎に道案内を命じた。そこで加茂二郎が田村麻呂に村の守護神である加茂八幡宮に参詣することを勧めたので、田村麻呂が社前で戦勝祈願をしてから鬼の住処に向かった。

それから一行が鬼の住処に入ると、鬼たちは酒盛りの真最中だった。そこで田村麻呂が一気に攻めかかると、鬼たちは次々と斬り伏せられて残らず退治されてしまった。この後、鬼の首は銅器を納められて由加山の北東にある妙見山に埋葬された。その場所は「鬼塚」と呼ばれるようになった。その後、鬼の霊は75匹の白狐に変わり、今までの悪業を悔いて瑜伽大権現の眷属となって人々を助けたという。