珍奇ノート:悪路王の伝説



資料の伝説


『吾妻鏡』


奥州合戦で藤原泰衡を破った源頼朝は降伏した樋爪俊衡を臣従させ、鎌倉に帰る途中に多くの捕虜を放免し、残った30名ほどを引き連れていった。

その途中、頼朝はとある山のいわれを捕虜に尋ねてみると、捕虜は「あれは田谷窟といいます。ここは田村麿や利仁といった将軍が帝の勅命を受けて蝦夷を討伐した時に、悪路王や赤頭らが砦を構えていた岩屋です」と教えた。

『鹿島神宮文書』


後堀河院の御代、関白光明峯寺殿・藤原道家朝臣の御子の征夷大将軍頼経(藤原頼経)が悪来王退治のために関東へ下向された時、鹿島神宮の神から神託を授かった。この後、社内に蔵を造り、諸々の神器を安置して四時の祭祀を怠ることなく、禁中と同様に催すことになった。

『奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来』


奥州の達谷窟の岩屋には悪郎と高丸という兄弟が住んでいた。彼らは苅田丸・田村丸父子を討って帝位に就き、先祖の藤原千方の無念を晴らそうと企み、風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼と共に謀議を計っていた。

そこで、都に上った水鬼と隠形鬼は官女に化けて花見の宴に紛れ込んで帝に近づいたが、これを見抜いた田村丸が水鬼を討ったので隠形鬼は逃げ帰った。このことで賊の追討の勅命が下り、これを受けた田村丸は5万8千余騎の軍勢を率いて奥州へと攻め入った。

この戦で田村丸の弟の千歳君は城中深く攻め込んだところを隠形鬼に捕えられたが、山伏に身を変えて現れた秋葉大権現によって救い出され、虚空より大磐石を降らせたり、大地から火焔を湧き出させて賊を殲滅したという。

『田村の草子』


平安時代のこと、俊仁将軍が参内していたところ、土風が吹き上がって妻の照日御前を天に連れ去ってしまった。これに悲観した俊仁は夢で照日御前と逢えるように願いながら床に就くと、夢の中に3人の童子が現れて 俊仁の情けない姿を嘲笑しながら天狗を尋ねるように助言した。そこで、俊仁が愛宕山の恐惶坊を尋ねると、そこで帰り道を行けば分かると教えられた。そこで、急いで帰り横たわる大木の橋を踏み鳴して答えを問うと、大木が動いて大蛇の正体を現した。

その大蛇は、益田ヶ池の大蛇であった俊仁の母の妹と名乗り、妻を奪ったものは陸奥国の高山に棲む悪路王という鬼だと知らせ、鞍馬の多聞天に御力を借りて討つように教えた。また、俊仁の母が人界の縁に引かれて成仏できないというので、俊仁は哀れに思って1万部の法華経を詠み、1000人の僧を呼んで供養した。それから俊仁は鞍馬に行って37日間の参籠を終えると、多聞天から剣を賜った。

その頃、都では二条大将軍の姫君や三条中納言の奥方など妻子を失った者が数多く居たので、俊仁は彼らを連れて陸奥国に出発した。その途中で陸奥国の初瀬郡田村郷に着いた時、俊仁は土地の賤女と一夜の契りを交わして「忘れ形見が居れば、これを印に都を尋ねよ」と1本の鏑矢を渡した。

それから悪路王の居城に向かうと正面の守りが厳重だったので、裏口に回ってみると一人の少女が泣いているのが見えた。俊仁が素性を尋ねてみると、少女は美濃前司の娘で捕われて3年になり、今は馬飼を任されているという。また、今は悪路王は越前国に出かけているというので、俊仁が城への入り方を問うと、いつも龍駒に乗って入っていると答えた。そこで、俊仁が龍駒に跨ると城から離れて北の方に飛んでいこうとするので、俊仁は「従わねば命はないぞ」と脅すと、恐れて居城に向かっていった。

俊仁が居城に着くと、城門が固く閉ざされていたので、仏神に祈念したところで門が開けることができた。そこで城内に侵入すると大勢の女が見つかり、別の場所で照日御前も見つけた。そこから城内を見回ってみると、鮨にされた人間の入った桶や稚児の串刺しなど、おぞましいものが置かれていた。

しばらくすると、空が曇り始め、雷鳴が鳴り響き、やがて悪路王が帰ってきた。悪路王は何者かが侵入したことに気づき、手下の鬼どもと共に目を光らせて睨みながら探したが、その時に俊仁の頭上に日月現れて それが鬼どもを睨みつけると、睨み負けた鬼どもは血の涙を流した。そこで俊仁が毘沙門天の剣を投げつけると、次々に鬼どもの首を落としていった。こうして悪路王を倒すと、俊仁は捕われた人々を救い出して都に帰っていった。

『鈴鹿の草子』


平安時代のこと、俊仁将軍が参内していた時に妻の照日御前が庭に出ていたところ、魔縁の者がやって来て照日御前を空に連れ去ってしまった。これを知った俊仁はしばらく探し回ったが、見つけることができずに落ち込んでしまった。ある時、俊仁は町の幼子が歌っていた童歌を聞いて手がかりを掴み、愛宕山の恐惶坊を尋ねると帰り道にある朽木に尋ねれば分かると教えられた。そこで、急いで帰り横たわる朽木を蹴って答えを問うと、朽木が動いて大蛇の正体を現した。

その大蛇は、俊仁の母と名乗る近江国の大蛇であり、妻を奪ったものは陸奥国の峨峨山に棲む悪路王という鬼だと知らせ、鞍馬山の毘沙門天のところに参り、多聞天から御力を借りて悪路王を討てと教えた。それから俊仁は鞍馬に行って7日間の参籠を終えると、多聞天から剣を賜った。

それから俊仁は都に帰って軍勢を整えると、急いで陸奥国に向かった。その途中で陸奥国の集落に着いた時、俊仁は土地の賤女と一夜の契りを交わして「忘れ形見が居れば、これを印に都を尋ねよ」と1本の鏑矢を渡した。また、賤女から鬼の居場所を聞いたので、それを頼りに峨峨山に向かった。

それから悪路王の居城に向かうと正面の守りが厳重だったので、裏口に回ってみると一人の少女が泣いているのが見えた。俊仁が素性を尋ねてみると、少女は美濃前司の娘で捕われて3年になり、今は馬飼を任されているという。また、今は悪路王は越前国に出かけているというので、俊仁が城への入り方を問うと、いつも地獄王という龍馬に乗って入っていると答えた。

そこで、俊仁が地獄王に跨ると城から離れて北の方に飛んでいこうとするので、俊仁は「従わねば命はないぞ」と脅すと、恐れて居城に向かっていった。俊仁が居城に着くと、城門が固く閉ざされていたので、仏神に祈念したところで門が開けることができた。そこで城内に侵入すると大勢の女が見つかり、別の場所で照日御前も見つけた。

しばらくすると、空が曇り始め、雷鳴が鳴り響き、やがて悪路王が帰ってきた。悪路王は何者かが侵入したことに気づき、手下の鬼どもと共に目を光らせて睨みながら探したが、その時に俊仁の頭上に日月現れて それが鬼どもを睨みつけると、睨み負けた鬼どもは血の涙を流した。そこで俊仁が毘沙門天の剣を投げつけると、次々に鬼どもの首を落としていった。そこで悪路王の首は天に舞い上がっていき、それは7日間回って「魔王の剣を持って俊仁を討とう」と喚き散らした。その後、首が地に落ちると、俊仁は首を焼いてその灰を持ち帰らせた。こうして悪路王を倒すと、俊仁は捕われた人々を救い出して都に帰っていった。

御伽草子『立鳥帽子』


坂上田村五郎利成は、勅命によって近江国の鈴鹿山に棲む女盗賊・立鳥帽子の討伐に向かったが、立鳥帽子は池中の三島(蓬莱・方丈・瀛州)の御殿に住んでいたので、攻める術がなかった。そこで利成は蟇目矢に玉章を取り付けて立烏帽子と矢文の交換を始めると、立鳥帽子は陸奥国のきりはた山に棲む夫の悪鬼・阿黒王を疎んじており、この悪鬼を討ってくれるなら利成と妹背の契りを結ぶと言った。これに利成が応じると、立鳥帽子が仁対玉に声を吹き込んで投げ、利成がこれを聞くと「翌朝、阿黒王が湖水の周辺に現れるので、そこを射殺せよ」と教えるものだった。そして、立鳥帽子の言った通りに阿黒王が現れたので、利成は阿黒王を射殺して、めでたく立鳥帽子と結ばれたのであった。

『日本王代一覧』


延暦20年(801年)、陸奥国の高丸という賊が達谷窟で軍を起こして駿河国清見関まで攻め上った。節刀を賜った坂上田村麻呂が討伐に向かうと、高丸は退いて陸奥国に引き籠もったが、田村麻呂はこれを追って神楽岡で高丸を射殺し、悪路王という賊も討伐した。

『前々太平記』


延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は勅命によって奥州に出立し、賊長の高丸および悪路王と駿河国の清見関辺りで戦おうとしたが、賊は田村麻呂の武勇を恐れて逃げ帰った。田村麻呂はこれを追撃し、高丸を射殺して、悪路王を生け捕りにした。その後、田村麻呂は胆沢の地に八幡宮を建立して弓矢を奉納し、さらに達谷窟に鞍馬寺を模した寺を建立して多聞天像を安置して帰郷した。翌年、田村麻呂は胆沢城の築城のために再び奥州に向かった。その折に降伏した夷賊の張本に、大墓公(アテルイ)、盤具公(モレ)などがおり、田村麻呂は総勢600人の夷賊を連れて帰郷した。

地方の伝説


達谷窟毘沙門堂の縁起(岩手県西磐井郡平泉町)


平安時代、この地には悪路王、赤頭、高丸という蝦夷がおり、岩窟に要塞を構えて悪事を働いて周辺の良民を苦しめていた。これに国府が対応したが、その力では蝦夷を抑えることはできなかった。そこで、桓武天皇は坂上田村麻呂に蝦夷征討の勅命を下して奥州に派遣した。この時、悪路王たちは達谷窟から3000人の賊徒を率いて駿河国の清美関まで攻め入っていたが、田村麻呂が京を出立したと聞いて恐れをなして岩窟に戻っていった。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は蝦夷との激闘の末に岩窟の守りを固める蝦夷を討ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ねて蝦夷平定を果たした。

田村麻呂は此度の戦勝を毘沙門天の加護によるものとし、京の清水寺の舞台を模した弓間四面の毘沙門堂を建立し、堂内に108体の毘沙門天を祀って窟毘沙門堂(窟堂)と名付けた。その翌年の延暦21年(802年)には、別当寺として達谷西光寺を創建し、奥眞所乗人を開基として東西に30余里(120km)、南北に20余里(80km)にもおよぶ広大な寺領を寄進した。

人首丸伝説(岩手県奥州市)


昔、坂上田村麻呂が蝦夷征討にやって来た時、蝦夷の酋長・悪路王を磐井で討ち、さらに その弟の大武丸を追討して栗原で捕えて殺した。その子の人首丸(ひとかうべまる)は逃げ延びて江刺に来て、この地の大森山に入り、絶頂の岩窟(俗に鬼が城と呼ぶ)に隠れた。しかし、田村麻呂の部下の田原阿波守兼光という者が遠見を物見山(種山)に置き、山道にて挟み撃ちにして人首丸を殺した。そこに死体を葬り観音堂を建てた。

登喜盛伝説(岩手県八幡平市)


長者屋敷は、奈良時代に大武丸の配下で高丸・悪路の一族の登喜盛が立て籠もった館で登喜盛屋敷と呼ばれていた。登喜盛の一族は各地から財宝を略奪してこの屋敷に蓄えていたが、征夷大将軍の坂上田村麻呂に討たれて滅ぼされたという。その後、坂上田村麻呂は当地の霊泉から湧く清水で太刀を洗ったことから、この清水は「太刀清水」と呼ばれるようになったという。

豆渡長者伝説(岩手県八幡平市)


昔、松尾村の長者屋敷の主は周辺の村人たちから「西の長者」と呼ばれていた。この西の長者は、長者山の麓に屋敷を構えて「東の長者」と呼ばれた酒樽長者の娘を嫁に迎えることになった。祝言の日、東の長者は御伴300人に馬88頭という豪勢な行列を率いて長者屋敷に向かった。

ところが、長者屋敷は砦も兼ねた堅固な造りにしていたので、門前に流れる長川にはわざと橋を掛けていなかった。そこで西の長者は部下に命じて豆俵を長川に運ばせ、それを川中に積み上げてあっという間に橋を造ってしまった。このことから長川は「豆渡川」と呼ばれ、西の長者も豆渡長者と呼ばれるようになったという。

その後、長者夫婦は毎年1棟の蔵を新造するほど栄えるようになったが、後に国の南方で大和朝廷の軍勢が侵略戦争を仕掛けてきたので、長者屋敷の一族も参戦を余儀なくされ、その中で西の長者は武勇と人柄が買われて戦の陣頭指揮を司ることになり、平泉の達谷窟で朝廷軍と戦うと西の長者は「梟帥高丸悪路」と呼ばれて朝廷方に恐れられるようになったという。

箆宮権現(箟岳観音)の由来(宮城県遠田郡桶屋町)


延暦2年(783年)、磐井郡の達谷の岩屋を根城としていた蝦夷の頭目・高丸が、駿河の清見ヶ関まで攻め上った。そこで坂上田村麻呂に高丸討伐の勅命が下り、田村麻呂は高丸を箆嶽に追い詰めて射ち殺し、その仲間の悪路王も斬り殺した。その後、田村麻呂は高丸の胴体を丘に埋め、山上に敵味方の遺体を埋葬し、その上に大塚を築いて観音堂を建てた。

また、地主権現の白山の社前の地面に残った矢を突き立てて「もし、再び東夷が起きることがないのならば、この矢は7日7夜の間に生きて枝葉を出すだろう」と誓約した。すると、そのとおりに矢竹から根が生えて生い茂って竹藪となった。それから竹藪の繁った山を箆(のの)と称し、山の権現は箆宮権現(ノノミヤゴンゲン)と呼ばれるようになった。この伝説から正月の25日には この竹を切って矢を作るようになったという。

田村麻呂の仏像奉祀伝説(福島県福島市)


昔、田谷窟に悪路王が棲んでおり、これを坂上田村麻呂が討伐した。その際に、信夫山中にあった夜毎に光る霊木を使って仏像を造り、この地に祀ったという。

子松神社にまつわる伝説(福島県田村市)


延暦年間、賊将・高丸悪路王が決起して都を襲おうとしたので、坂上田村麻呂が鎮圧に向かった。田村麻呂は京の祇園社に戦勝祈願し、その加護によって高丸を追い詰めると、高丸は霧島嶽に籠った。その後、高丸は投降の意を示したので田村麻呂は安堵していると、高丸は野に火を放って田村麻呂の軍勢を火攻めにした。

その時、一羽の鷲が飛んできて雨を降らせ、火を消し止めて田村麻呂を救った。これにより、田村麻呂は高丸を討ち取り、後にその鷲を祇園社の神が化身したものと捉えて、この地に鷲大明神として祀った。これが子松神社の始まりとされている。

藤原阿黒丸の伝説(福島県須賀川市)


藤原阿黒丸は陸奥国小野郷の須萱村大嶽に立て籠もり、都への貢物や民家の財宝を略奪していた。そのため、坂上田村麻呂が小倉字一斗内に下向し、1000余騎の軍勢で阿黒丸を攻め滅ぼした。

磐女神社の由緒(福島県須賀川市)


古老の言い伝えによれば、桓武天皇の御代に東征した田村将軍は、奥州の達谷窟に籠った酋長・悪路王を討伐し、東国の賊徒を平定して凱旋した折に矢田野の地を訪れた。この地は草が茫々と生い茂った人気のない土地だったが、田村将軍は広野に出た際に天に祈り、国土守護を祈念して大矢を放った。この大矢を以って磐女の神を祀ったので、磐女大明神として崇敬されるようになったという。

田村麻呂の大多鬼丸退治(福島県田村市)


昔、陸奥国の霧島山(現・大滝根山)に蝦夷の首魁の大多鬼丸が住んでおり、手下と共に周辺を荒らし回って良民を苦しめていた。そこで朝廷は坂上田村麻呂に大多鬼丸討伐の勅命を与えて田村の地に派遣した。

田村麻呂は大多鬼丸の軍勢に苦戦したが、神託や白鳥の導きによって奮戦し、ついに大多鬼丸を達谷窟に追い詰めた。そこで大多鬼丸が自害したため、首魁を失った軍勢は官軍に降伏し、戦いは終結を迎えた。この後、田村麻呂は大多鬼丸の武勇を偲んで、その首をあぶくまが見渡せる仙台平に丁重に葬ったという。

里を守った大多鬼丸(福島県田村市)


昔、陸奥国の霧島山(現・大滝根山)にあった白銀城には蝦夷の首魁の大多鬼丸が住んでおり、七里ヶ沢(現・滝根町)の周辺を平和に治めていた。ある時、朝廷は土地と領民の譲渡を要求してきたが、大多鬼丸がこれを断ると、朝廷は坂上田村麻呂を派遣して武力を以って平定しようとした。

これに大多鬼丸も武力で対抗し、手下の鬼五郎らと共に奮戦したが、数に勝る官軍に次第に追い詰められていき、最期には達谷窟で妻の幸姫と共に自害してしまった。こうして官軍に敗れた大多鬼丸は後世に悪鬼として名を残すことになったという。この達谷窟は今の福島県田村市にあるもので、かつては鬼穴とも呼ばれていた(岩手県の平泉にある達谷窟とは異なる)。

悪路王大滝丸の伝説(福島県田村市)


昔、陸奥国の刈田岳に悪路王大滝丸という鬼が棲み、坂上田村麻呂が討伐に向かったが妖術で霧を呼んだり、火の雨を降らせたりして田村麻呂らを苦しめた。そこで田村麻呂は一旦都に退いて軍備を整え、それから再び大滝丸と戦うと、分が悪くなった大滝丸は大滝根山に飛んでいき、そこの鬼穴(達谷窟)を根城として暴れまわった。田村麻呂は大滝根山に向かい、そこで大滝丸と戦うと、やがて追い詰められた大滝丸は鬼穴で最期を迎えたという。また、田村麻呂は戦で加護を授けてくれた神仏に感謝して、白鳥神社や入水寺を建立したという。

星宮神社に伝わる伝承(栃木県那須烏山市)


桓武天皇の御代に蝦夷の族長の悪路王が駿河方面まで進撃してきたため、勅命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に当たった。そこで烏山町落合に集結して那須山に籠もった高麻呂(高丸)や、烏山付近で悪路王などの蝦夷を討ったと伝えられている。

悪路王の首像(茨城県鹿嶋市)


茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の宝物館には悪路王の首像・首桶がある。当社では「平安時代に坂上田村麻呂が奥州で征伐した悪路王(阿弖流為)の首を寛文年間・口伝により木製で復元奉納したもの。悪路王は、大陸系の漂着民族とみられるオロチョン族の首領で、悪路(オロ)の主(チョン)と見る人もいる」と説明しており、首像は寛文4年(1664年)に藤原満清が田村麻呂が征伐した悪路王の首級を木造で復元奉献したものであるとされている。

悪路王の首級(茨城県東茨城郡)


茨城県東茨城郡城里町高久にある鹿島神社には「延暦17年(798年)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北の蝦夷平定に向かった際、当社に立ち寄って戦勝を祈願した。そして、陸奥国平泉の達谷の窟(一説に下野達谷窟)を本拠地とした蝦夷と戦い、延暦21年(802年)4月に蝦夷の大将の阿弖流為(悪路王または高丸とも)を倒した。その帰途に再び当社に立ち寄った田村麻呂は勝利を感謝して阿弖流為の首を本社前に埋め、それを模した木製の首を造り、神社に奉納した」という伝説があるとされ、その木像は今でも存在しているという。