珍奇ノート:首切れ馬(首無し馬)の伝説



首無し馬の行列(福井県)


昔、越後国の城下町では毎年4月24日の夜には外に出てはならないと言い伝えられていた。

その理由は、この日の夜の亥の刻(午後10時頃)になると、豊臣秀吉に滅ぼされた柴田勝家の家臣たちの亡霊が出るからである。この亡霊たちは全員が鎧兜を纏った武者で騎乗しているが、人も馬も真っ白で、その馬には首がない。

この首無し馬に乗った白い軍団が夜通し城下町を練り歩き、夜明けとともに消えていくが、この行列に出会った者は、その事を他人に話すと血を吐いて死んでしまうという。

夜行さん(徳島県)


以前は節分・大晦日・庚申の夜の他に夜行日があった。夜行日とは大の晦、小の朔日だといわれるが、これは『拾芥抄』にある百鬼夜行日のことだろう。正月は子の日、二月は午の日など、月ごとに日が定まっているもので、この日の晩には悪魔が盛んに横行する。十字路は悪魔が最も多く集まる場所で、人が入れば迷って出られなくなるという。

この日の晩には、悪魔の大将である夜行さんが首切れ馬に乗って徘徊する。夜行さんは一つ目で髭の生えた鬼といわれており、通る時に馬につけた鈴の音がジャンジャンと聞こえてくるという。もし、この首切れ馬に出会ってしまうと、投げられたり蹴り殺されるといわれるが、草鞋を頭に乗せて地に伏せていれば免れることができるという。

吉野川市の西方寺の山門は「閉めずの門」と呼ばれており、その所以は 昔 住職が門を閉めていたところ、首切馬に乗った夜行さんが此処を通ろうとして、大門の扉の蝶番をねじ切ったという伝説があり、それからは大の晦・小の朔日には山門を閉めなくなったといわれている。

首無し馬の亡霊(徳島県)


ある大晦日の夜、寺に強盗の一味が押し入ったが、その時に寺で飼っていた馬がやかましく嘶いて暴れたので、強盗は馬の首を刎ねた。それから翌年の大晦日に首無し馬が目撃されたり、凶事が続いたので、この寺では元日に鶏鳴を聞いてから餅を搗くようになったという。

一宮長門守成祐の亡霊(徳島県名西郡神山町)


夜行日の夜、一宮長門守成祐の亡霊が首切れ馬に乗って高根の悲願寺に参拝するために駆けていくという。

干菜を引く首切れ馬(徳島県美馬郡)


節分の晩には三つ角に首切れ馬が走るという。これは干菜(ほしな)のようなものを引っ張っており、これに飛びつくと金持ちになるといわれている。また、着物の片袖を被って見ると首切れ馬が通るのが分かるという。

七人童子の伝説(徳島県板野郡上板町)


引野村(上板町)には、深夜に老松の下から1頭の首切れ馬を先頭に異様な風体の七人童子が現れて、鈴の音をジャンジャンと響かせながら、那東の上瀬と下瀬の境を南へ進んでいき、火打三昧の墓地を抜けて、さらに南の吉野川を渡って石井町に到り、7ヵ所の天神社、7ヵ所の地蔵を巡ると、今まで来た道を引き返して帰るという。

この首切れ馬を見た者には禍が起こるといわれたため、恐れた村人たちは退散を願って首切れ馬を供養するため地蔵尊を建立した。すると、これ以来は首切れ馬の妖怪は出なくなったという。

この首切れ馬が現れた原因は、ある兄弟が相続争いで揉めて 土地・家を2つに分けた挙げ句、最後に残った飼馬を首と胴に分けたからだといわれている。別説としては、引野村に1人の老婆が六部を背負ってやって来たが、来り人(外部の者)を村八分にする悪習によって惨々痛めつけられて、遂には入水自殺してしまった。こうした出来事の後に首切れ馬が現れるようになったという。

ウマミチ(香川県)


天狗や魔の通る道筋をナマスジ・ナマメスジ、首切れ馬が通った道をウマミチと呼び、そこは通行を忌まれる。

縁起の良い首無し馬(愛媛県今治市玉川町)


小鴨部と別所との間に縄目という土地があり、そこには毎年2月4日の節分の夜に首の無い人が首無し馬に乗って通るとのだという。よって、ここには家を建てない。また、この首なし馬を見る事は縁起が良く、どんな人でも出世できるといわれている。

犬坊の亡霊(愛媛県松山市)


松山の御幸寺山城の城主であった犬坊は、月毛の馬に乗っていた時に谷から落ちて死んだ、あるいは合戦にて討ち死にしたともいわれている。このため、その亡霊が首なし馬に乗って現れて、御幸寺山の麓辺りから樋又にかけて走り去るようになり、行き逢った者を祟るので必ず煩ってしまうという。

そこで大守は大脇清太夫に退治を命じると、清太夫は甲冑や長刀で武装して、馬に乗ってこの麓にやって来て、犬坊に「我は君命によりやって来た。さあ、此処から立ち去るがよい」と声高に述べると、白紙のようなものが東に飛び去っていき、石手寺山の上に止まった。これは今の愛宕堂であり、その後は怪しい事も無くなったという。

首なし馬の亡霊(愛媛県松山市)


松山市湯山の奥の城の城主であった河野通存は、子の九郎通賢が東野の松末館の娘の元へ通うのを快く思わず、守役に命じて通賢を殺害させようとした。

そこで守役は、先に東野にて馬の首を刎ね、次いで通賢を殺して、それから自害した。これより夜毎に首なし馬が現れるようになったので、村人は祠を建てて祀ることにした。

また、東雲に茶屋を営んで移居した久松定行は、陰火の飛ぶを忌んで この故事を知り、奥城八幡宮を再建して鎮魂した。これが今の東山神社である。

松山市の首無し馬(愛媛県松山市)


松山市の北梅本の有田児山城勢は、津吉の城の台勢に敗れて怨霊と化し、両城間の繩手筋という一本道から首無し馬に乗って夜毎に攻撃するという。元弘3年(1333年)の星ノ岡の合戦後、首無し馬に乗った武将たちがノボリウチから平井城址を右に西し、スキザキ池から鷹ノ子・来住を通って星ノ岡五ヶ森に入って消えていった。

その時、道々で シャンチキ、シャンチキ と微かな音を立てるので、シャンシャン馬・チンチン馬と呼ばれて恐れられた。重信町野田と牛淵の境にある長塚石地蔵もシャンシャン馬の供養のために立てられたと伝えられる。

大洲市の首無し馬(愛媛県大洲市)


大洲市春賀にあった祖母井城は、天正13年(1585年)7月6日朝に菅田宇津城主の大野安芸守直光に攻められて敗北し、祖母井城主の之照は討ち死にした。この時、之照は死に臨んで愛馬の首を刎ねた。

これ以来、之照の命日である旧7月7日の早朝に和田から春賀の東門寺へと主人の霊を乗せた首無し馬が走るので、東門寺は6日夜から7日にかけて本堂の扉をわずかに開けておくという。

この異説として、毎月の朔日・15日・28日には「祖母井城から延尾城へ駆ける」あるいは「大洲一木城の御堂から祖母井城に到る」ともいわれている。

東温市の首無し馬伝説(愛媛県東温市)


昔、吉山城主の和田河内守吉盛と荏原城主の平岡大和守房実との間で戦が起こった。吉山城から戦に出ていく途中、吉山勢の侍が乗っていた馬の首が荏原勢の侍によって斬り落とされてしまったが、その馬は首が無いままで4,5丁ほど走って、そこでばったりと倒れてしまった。これ以来、夜毎に吉山城から殿様道まで間を首無し馬が往来するようになったという。

その後、ある人が夜更けにその道を通りかかった時に馬の蹄の音が聞こえてきて、それがだんだんと近づいてくるようだったので、その人は恐ろしくなって急いで橋の下に隠れることにした。すると、その音が橋のところで止まったので、恐る恐る様子を見てみると、それは噂の首無し馬だった。また、その馬には侍が跨っていて「人臭い、人臭い」と騒ぐので、その人は肝を潰して「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と念仏を唱え続けた。これに侍は「念仏だ、構うな」と言って、また馬を走らせた。

その人は「助かった…」と安堵して、急いで家に帰ったが、それから高熱にうなされて大変苦しんだという。そこで、村人たちは首無し馬と侍の霊を慰めようと相談し、馬が斬られたところに馬を描いた石塔を建て、馬が倒れた所に塚を築いて供養してやった。すると、それからは首無し馬は出なくなったという。

夜行の神(愛媛県西予市)


毎月27日夜の子の刻(午前0時前後)、上須戒村と高山村との境に小笹ヶ城から、烏帽子に狩衣といった姿の貴人が頭の無い白馬に乗って来て、一人の舎人を御伴に多田村の小笹ケ城まで通ったという。地元の人は これを夜行の神と呼んでおり、もし この貴人に行き逢えば忽ち熱病を煩って死ぬと言い伝えられている。よって、27日の夜には人々は恐れて この道を通ることはない。

ある年の秋、高山村の百姓であった権四郎が稲の番をしていたところ、遥か遠くから蹄の音が聞こえて、次第に近づいてくると人の声も聞こえるようになった。そこで権四郎は夜行の神の話を思い出し、日を数えてみると27日夜の子の刻頃だったので、驚き恐れて番小屋の中から飛び出し、道の下の岸陰に隠れることにした。

そこで心中で氏神に念じていると、程なくして夜行の神が道を通って来たので、どうなることかと思っていると、夜行の神がしばらく足を留めて道下を覗いて「この下に人がいる」と言った。すると、これに舎人が「この者は下人であります」と答えたので、夜行の神は また足を進めていった。そこで権四郎は助かったと思ったが、それから90日ほど煩ったという。

石地蔵の伝説(愛媛県東温市)


南北朝時代の戦で恨みを持って死んでいった兵士の血を含んだ土は盛られて塚とされた。ある夜、神官がこの付近を通ったところ、首なし馬に乗った兵士が現われて、神官に「我は南朝に仕えていたが、7代まで君主に仕える」と言って消えていったという。

そこで人々は石地蔵を作って霊を慰めたが、この地蔵の付近には、首無し馬が出たり、地鳴りがすることがあり、また石地蔵の首が落ちたりするともいわれている。

八王子の首無し馬伝説(東京都八王子市)


昔、八王子の滝山丘陵にあった高月城が敵軍の襲撃を受けた際、城の姫君が馬に乗って逃亡したが、敵兵に発見されて馬の首を刎ねられた。しかし、馬は首の無いまま疾走し、そのまま天へと昇っていったという。

それ以来、姫君と首無し馬は満月の夜に八王子を徘徊するようになり、これを見た者は必ず不幸になるという。

岡城の首切れ馬(大分県竹田市)


戦国時代、九州で島津氏と大友氏が激しい戦を繰り広げていた中、大友家の家臣・志賀親次の居城である岡城が島津の猛攻にさらされていた。この戦の際に、一頭の美しい栗毛の馬が岡城に駆け込んできた。留守を任されていた奥方は その馬の美しい毛色から一目で志賀家の武将の馬だと分かったが、この馬が戦場に武将を置き去りにして逃げ帰ってきたのだと思い、馬の首を刎ねてしまった。

しかし、戦の後に兵から話を聞くと、栗毛に乗っていた武将が戦場で討死したので、それを知らせるために栗毛は城に帰ったということだった。それから数日経った夜のこと、外で馬の蹄の音が聞こえるので奥方が外を覗いてみると、そこには首のない栗毛が石段を上がっているところだった。この後、奥方は自分の行為を悔やみ、床に臥せてしまい、遂には病で命を落としてしまったという。