珍奇ノート:赤頭の伝説



資料の伝説


『吾妻鏡』


奥州合戦で藤原泰衡を破った源頼朝は降伏した樋爪俊衡を臣従させ、鎌倉に帰る途中に多くの捕虜を放免し、残った30名ほどを引き連れていった。

その途中、頼朝はとある山のいわれを捕虜に尋ねてみると、捕虜は「あれは田谷窟といいます。ここは田村麿や利仁といった将軍が帝の勅命を受けて蝦夷を討伐した時に、悪路王や赤頭らが砦を構えていた岩屋です」と教えた。

『西光寺代々之事』


延暦21年(802年)、坂上田村丸が東夷押領赤頭四郎などを討ち取った

『義経記』


ここに代々の帝の御宝である、天下に秘蔵された16巻の書がある。これは異朝にも我が朝に伝わったもので、これを伝えられた人には一人として愚か者は居ない。異朝には太公望がこれを読んで、8尺の壁に上り、天に上る得を得た。張良は一巻の書と名付け、これを読んで 3尺の丈に上って虚空を翔けたという。樊噲はこれを伝えて甲冑を身に付け、弓矢を取り、敵に向かって怒れば、頭の兜の針を通したという。本朝の武士においては、坂上田村丸はこれを読み伝えて悪事の高丸を討ち取り、藤原利仁はこれを読んで赤頭の四郎将軍を討ち取ったという。

謡曲『鈴鹿』


田村麻呂は、鈴鹿姫の手引きで赤頭の四郎将軍高丸という鬼神を退治した

地方の伝説


達谷窟毘沙門堂の縁起(岩手県西磐井郡平泉町)


平安時代、この地には悪路王、赤頭、高丸という蝦夷がおり、岩窟に要塞を構えて悪事を働いて周辺の良民を苦しめていた。これに国府が対応したが、その力では蝦夷を抑えることはできなかった。そこで、桓武天皇は坂上田村麻呂に蝦夷征討の勅命を下して奥州に派遣した。この時、悪路王たちは達谷窟から3000人の賊徒を率いて駿河国の清美関まで攻め入っていたが、田村麻呂が京を出立したと聞いて恐れをなして岩窟に戻っていった。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は蝦夷との激闘の末に岩窟の守りを固める蝦夷を討ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ねて蝦夷平定を果たした。

田村麻呂は此度の戦勝を毘沙門天の加護によるものとし、京の清水寺の舞台を模した弓間四面の毘沙門堂を建立し、堂内に108体の毘沙門天を祀って窟毘沙門堂(窟堂)と名付けた。その翌年の延暦21年(802年)には、別当寺として達谷西光寺を創建し、奥眞所乗人を開基として東西に30余里(120km)、南北に20余里(80km)にもおよぶ広大な寺領を寄進した。

猪川観音の縁起(岩手県大船渡市)


気仙三観音の一つの猪川観音(長谷寺)は、大同年間に大嶽丸の残党で赤顔(あかがしら)と称して気仙地方を支配していた金犬丸(きんけんまる)を坂上田村麻呂(一説に副将軍の別府隼人)が討ち取り、土中に埋めた首の上に御堂を建てて十一面観音を祀ったことに始まるとされている。また、宝永元年(1704年)に寺域から赤頭の歯とされるものが発掘され、その内の33枚が鬼の牙として寺宝になっている(実は原始水牛の歯らしい)。

鬼越の伝説(岩手県大船渡市)


昔、この地には「赤頭」という悪鬼の部族が棲んでおり、東征に来た坂上田村麻呂の軍勢と戦って頑強に抵抗していた。しかし、半年あまりの戦いで遂に敗れて、一族は四散してしまった。

この赤頭の頭目は「高丸」という鬼であり、田村麻呂に追討されて2丈(6.06m)ほどの大岩の上に追い詰められてしまった。この大岩の背後は深い淵だったので田村麻呂は遂に追い詰めたと思ったが、高丸が力を振り絞って岩の上から飛び上がると、淵を飛び越えて向こう岸に着地して、そのまま阿修羅のように逃げ去ってしまった。

これ以来、この地を「鬼越」と呼ぶようになったという。

赤津四郎の伝説(福島県郡山市熱海町)


昔、奥州宮田村で坂上苅田麻呂の子が生まれた。母は高野郡に住んでいた橋本光忠の娘・阿口陀姫で、この子は後の坂上田村麻呂になり、当地で赤津四郎という賊将を討った。

この赤津四郎は多田野村の鬼穴、あるいは赤津村の布引山の鬼穴、あるいは丸守村の蝦夷穴、あるいは喜久田村の小室山、あるいは鬼生田村で生まれたといわれる。

赤津四郎は鬼ヶ城の鬼穴を根城として周辺で悪事を為していたので、延暦14年(795年)に討伐にやって来た田村麻呂と鬼穴付近の鬼ヶ平で戦い、弓矢で射られて殺されたという。

益子神社にまつわる伝説(福島県伊達郡桑折町)


昔、陸奥国に赤頭太郎という蝦夷がおり、伊達郡から信夫郡の辺りまで支配していた。延暦23年(804年)に東征に来た坂上田村麻呂が攻めてきたので、赤頭太郎は領民の身の安全を条件に自ら降伏し、吉田川の畔で斬首された。すると、領民は赤頭太郎の死を大いに悲しんだので、田村麻呂は社を建立した。人々はこの社を赤頭大明神として崇めたという。この赤頭大明神は鎌倉時代に幕府に命じられた伊達氏が益子神社と社名を改めたという。

益子神社にまつわる伝説(福島県伊達郡桑折町)


昔、陸奥国に大竹丸という蝦夷の首長がおり、坂上田村麻呂が東征の折に討伐に向かった。この際に伊達郡で大竹丸の弟の赤頭太郎(赤瀬太郎)を討つと、その祟りを恐れた村人たちは社を建てて赤頭太郎を祀り、赤頭大明神(赤瀬大明神)として崇めたという。その後、赤頭大明神は益子神社と社名を改められた。なお、赤頭太郎は大男だったとされており、後世に赤頭太郎の墓を掘り起こすと、馬のように大きな骨が出てきたともいわれている。