珍奇ノート:高丸の伝説



資料の伝説


『元亨釈書』


奥州の逆賊 高丸は、駿河国を落として清見関まで攻め上ったが、田村将軍が出陣すると聞いて奥州に退いた。

官軍と賊が戦うと、戦の中で官軍の矢が尽きたが、その時に現れた小比丘と小男子が矢を拾って田村将軍に与えた。田村将軍は怪しみながらも その矢を高丸に放ち、神楽岡で高丸を討ち取った。高丸の首級は都に持ち帰られた。

その後、田村将軍が清水寺の延鎮を訪ねた際に、寺に祀られていた勝軍地蔵と勝敵毘沙門の像を見ると、この二つの像に矢傷や刀痕があり、脚は泥土に塗れていたという。

『義経記』


ここに代々の帝の御宝である、天下に秘蔵された16巻の書がある。これは異朝にも我が朝に伝わったもので、これを伝えられた人には一人として愚か者は居ない。異朝には太公望がこれを読んで、8尺の壁に上り、天に上る得を得た。張良は一巻の書と名付け、これを読んで 3尺の丈に上って虚空を翔けたという。樊噲はこれを伝えて甲冑を身に付け、弓矢を取り、敵に向かって怒れば、頭の兜の針を通したという。本朝の武士においては、坂上田村丸はこれを読み伝えて悪事の高丸を討ち取り、藤原利仁はこれを読んで赤頭の四郎将軍を討ち取ったという。

『諏訪大明神絵詞』


桓武天皇の御代、東国の夷賊の安倍高丸が最悪の時であった延暦20年(801年)2月に、将軍の坂上田村丸が勅命を受けて高丸の追討にあたった。田村丸が奥州の境界に入って敵陣に向かうと、高丸は宅谷岩屋に城を構えていた。

その城は前に蒼海が広がり、後ろに碧巌が聳えており、左右は鐵石で厳しく閉じられていたので人馬が向かうのは難しかった。また高丸自身も城に閉じこもって門を開けようとしなかったので、官軍は為す術もない有様だった。云々

『神道集(信濃鎮守諏訪大明神秋山祭事)』


桓武天皇の御代(781~806年)、奥州に悪事の高丸という朝敵がいて人々を苦しめていた。この時、都には田村丸という兵がいた。この田村丸は我が国ではなく震旦国の生まれで、漢の高祖に朝広(趙高)という謀反を起こして敗北した家臣がおり、田村丸はその朝広の兵であった。田村丸は日本に逃げ延び、勝田宰相の元にやって来た。宰相には子が居なかったので養子にして稲瀬五郎田村丸と名乗らせた。

帝は田村丸を将軍にして高丸討伐を命じた。そこで田村丸が清水寺の千手観音に願を掛けると、7日目の夜中に「鞍馬の毘沙門天は我が眷属であるので、これに従え。奥州に向かう時は山道寄りに下るようにせよ。そうすれば兵を付き副わせよう」という観音の御告げがあったので、田村丸は鞍馬に参籠して多聞天、吉祥天女、禅尼師童子に祈願すると「堅貪」という3尺5寸(133cm)の剣を授かった。田村丸はこの出来事を帝に報告すると、3月17日に都を出立した。

それから御告げに従って山道寄りに奥州に向かうと、その途中の信濃国伊那郡で梶葉の水干に萌葱色の鎧を着た武士と出会った。そこで田村丸が高丸討伐のために奥州に向かうという事情を話すと、その武士は「高丸は弓勢に優れ、神通力は国内でも随一である。四天王が戦っても倒すのは難しいだろう」と言った。そこに藍摺の水干に黒糸縅の鎧を着た武士が来たので、田村丸が高丸討伐の事情を話して聞かせると、その武士は「私もお供しましょう」と言ったので、田村丸は一行に二人の武士を加えて奥州に向かうことになった。

それから数日が経つと、田村丸一行は高丸の住処にたどり着いた。しかし、高丸は都から将軍が来ることを知っていたので、これに備えて城郭を堅固にしていた。高丸の城はとても攻め落とせそうになかったが、田村丸の副将軍であった波多丸と憑丸が二人で城に向かって、出てきた高丸の眷属を300騎ばかり討ち取った。しかし、次第に戦い負けて波多丸が生け捕りにされてしまった。

高丸は捕らえた波多丸を木に吊るしていたが、田村丸が弓に矢を2本つがえて射放つと、小手を縛った縄と鉤の緒が切れたので、波多丸は逃げ出した。それから信濃で出会った二人の武士も駆けつけたので、田村丸らは5人で高丸の軍勢と戦った。田村丸は戦いの中で、海上に船を浮かべて鞠遊びや流鏑馬をすると、高丸の娘が興味を示して高丸に見るように勧めたので、高丸が城の石戸を少し開いた。その時に梶葉の水干の武士が石戸の隙間に矢を射ると、高丸の左眼に当たったので、田村丸が堅貪の剣を抜くと、剣は自ら斬りかかっていき、やがて高丸の首が落ちた。そこで田村丸たちは城内に乱入して高丸の8人の子供を討ち取った。

それから一行が帰路に着くと、その途中で信濃国伊那郡大宿に着いた時に梶葉の水干の武士が「我はこの国の鎮守の諏訪大明神である。千手観音・普賢菩薩の垂迹である。この度 清水観音の計らいによって将軍に随行した。我は狩庭の遊びを好むので、狩の祭を行って欲しい」と言って姿を消したので、田村丸は「千手観音・普賢菩薩はどうして殺生を好むのでしょうか」と言うと、諏訪大明神は「我は殺生を職とするものに利益を施し、神前の贄とすることで畜生を救済する志を持っている」と答えた。よって、田村丸は諏訪大明神に諏訪の地を寄進し、深山で狩りを始めた。この縁日は悪事の高丸を滅ぼした7月17日である。この祭を行う時は必ず大雨大風となるという。

その後、藍摺の水干の武士も「我は王城守護の住吉大明神である」と名乗って姿を消した。また、諏訪大明神は16歳になる高丸の娘を生け捕りにして御前に置いていたが、その娘が一人の御子を産んだので、諏訪大明神はその御子を上宮の神主と定めて「神」の氏を与えた。それから田村丸が都に戻ると、高丸の首は宇治の宝蔵に納められた。そして、清水に大きな御堂を造営した。この御堂は帝の勅願所となり、勝敵寺とも呼ばれるようになったという。

『奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来』


奥州の達谷窟の岩屋には悪郎と高丸という兄弟が住んでいた。彼らは苅田丸・田村丸父子を討って帝位に就き、先祖の藤原千方の無念を晴らそうと企み、風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼と共に謀議を計っていた。

そこで、都に上った水鬼と隠形鬼は官女に化けて花見の宴に紛れ込んで帝に近づいたが、これを見抜いた田村丸が水鬼を討ったので隠形鬼は逃げ帰った。このことで賊の追討の勅命が下り、これを受けた田村丸は5万8千余騎の軍勢を率いて奥州へと攻め入った。

この戦で田村丸の弟の千歳君は城中深く攻め込んだところを隠形鬼に捕えられたが、山伏に身を変えて現れた秋葉大権現によって救い出され、虚空より大磐石を降らせたり、大地から火焔を湧き出させて賊を殲滅したという。

『田村の草子』


都の将軍であった田村丸は、妻の鈴鹿御前と協力して鈴鹿山で大嶽丸という鬼を討った。その後、鈴鹿山で妻子と共に暮らすようになったが、時折 都のことを気にしており、いつか家族で都に移ろうと考えていた。そんな時、鈴鹿御前が"年の暮れに近江国の高丸という鬼が悪事を働いて世を乱そうとするので戦の準備をするように"と田村丸に言った。

それを聞いた田村丸は戦に備えて都に向かい、しばらくの間 都で遊覧して過ごした。その後、鈴鹿御前の予言した通りに近江国に高丸が現れて人々を襲ったという奏聞があったが、帝は大嶽丸を討って間もなかった田村丸に気を使って討伐の宣旨を下そうとしなかった。そこで田村丸が高丸討伐を自ら志願すると16万騎の軍勢が与えられた。

早速、田村丸が近江国に向かうと、高丸は堅牢な城に立て籠もって城門を閉ざしていたので、簡単に攻めることができなかった。そこで田村丸は大声を上げて挑発したが城からは何の返事も返ってこなかった。これに腹を立てた田村丸は、鈴鹿御前から習った火界の印を結んで城内に投げ込むと、たちまち城が丸焼けになったので、高丸は雲に乗って信濃国の布施屋獄に逃げていった。

田村丸が追って攻めると、高丸は駿河国の富士獄に逃げていった。これもやがて攻め落とすと、今度は外の浜に逃げていったので、また攻め落とすと、高丸は唐土と日本の境に向かい、岩をくり抜いて造った城に引き籠もってしまった。そこに攻め入るには海を渡らなければならなかったが、田村丸は船も用意せずに攻め入ったので向かい討たれて甚大な被害を受けた。

そこで田村丸は一旦 都に退くことにし、鈴鹿山の近くで宿を取って兵を休ませた。すると、そこに鈴鹿御前がやって来て引き返した理由を聞いたので、田村丸は今までの経緯と船を調達するためと答えた。これを聞いた鈴鹿御前は凡夫の力では高丸に敵わないので、兵は都に帰し、その代わりに自分が同行すると言った。そのため、田村丸は兵を都に帰して、鈴鹿御前と共に神通の車に乗って瞬く間に外の浜に飛んでいった。

その時に高丸は昼寝をしていたが、田村丸が来たことを察知して眷属どもに知らせると、すぐに岩城に入って岩戸を閉じてしまった。そこで鈴鹿御前が左手の指を立てて天を招くと、12の星から25人の菩薩が天降って妙な音楽を奏でたので、それに合わせて舞い踊ると、高丸の娘が舞に興味を示して高丸に見たいと懇願した。だが、高丸は田村丸らの謀だと気付いていたので、娘をなだめて舞を見せようとしなかった。

それでも娘は舞や音楽が気になって仕方がなかったので、密かに岩戸を細目に開けて覗いていたのだが、細目では全然見えないということで遂に岩戸を開けてしまった。その時、田村丸が黒鉄の弓に神通の鏑矢をつがえて射放つと、それは高丸の眉間を射抜いた。それから田村丸が剣を投げると、高丸親子と7人の眷属の首が落ちた。こうして高丸を退治した田村丸は、鬼どもの首を家来に持たせて都に凱旋し、勲功勧賞を思いのままに頂戴して鈴鹿山に下っていった。

『鈴鹿の草子』


ある時、近江国の蒲生山に悪事の高丸という魔王が現れて日本を征服しようとしたので、都の将軍であった田村殿に高丸討伐の宣旨が下った。田村殿は10万騎の軍勢を率いて蒲生山の高丸の城に向かったが、その周辺には神仏にが祀られておらず、堅牢な造りの城であったので、どうやって攻め入ればよいか分からなかった。

そこで田村殿はシャクワンの印を結んで城に投げ入れると、それは火の雨となって7日間降り続いた。これに流石の鬼どもも耐えかねて、夜は木人形に戦わせ、昼は自ら戦ったが、遂に高丸は敗れて駿河国の富士岳に逃げていった。田村殿が追って攻めると、次は武蔵国の秩父岳に逃げ、また攻めると、次は相模国の足柄山に逃げ、それから白河の関、那須岳と逃げ続けて、7日目に海上に浮かぶ島に逃げてそこに立て籠もった。

田村殿がその島を攻めると、迎え討たれて甚大な被害を受けたので、田村殿は一旦 都に退くことにし、鈴鹿山の近くで宿を取って兵を休ませた。そこで田村殿は鈴鹿山に行って妻の鈴鹿御前に相談すると、兵を都に帰して二人で高丸を討つことになった。翌朝、兵を都に帰すと二人で神通の車に乗って外浜に飛んでいった。

その時に高丸は昼寝をしていたが、空を飛んでいる神通の車が目に入ったので、80人の眷属どもに命じて磯を吹き上げて車を攻撃させたが、田村殿と鈴鹿御前が併せて4本の剣を地上に向かって投げると、たちまち80人の眷属どもの首を打ち落とした。これにより、高丸の軍勢は親子合わせて7人になってしまったので、唐土と日本の境にある海底の岩屋に入り、岩戸を閉じて守りを固めた。

そこで田村殿は攻められないと思って一旦 退こうと言ったが、鈴鹿御前が策を講じて紅の扇で天を招くと、12の星が降ってきて雲上に舞台を組んだので、鈴鹿御前が3時間ばかり舞台の上で舞い遊んだ。すると、高丸の娘が舞に興味を示して高丸に見たいと懇願したが、高丸はこれが謀略だと気付いていたので、娘をなだめて舞を見せようとしなかった。

それでも娘は舞が気になって仕方がなかったので、密かに岩戸を細目に開けて覗いていたのだが、細目では全然見えないということで次第に隙間を広げていき、遂に岩戸を開けてしまった。その時、田村殿が矢を射放つと、それは高丸の首に刺さって骨ごと射落とした。また、田村殿が剣を投げると7人すべての首を刺し貫いて、天に昇っていったという。

『田村三代記』


ある時、近江国の蒲生ヶ原に明石の高丸という鬼神が棲み着いて民に害をなしているという奏聞があったので、都の将軍であった田村麿に高丸討伐の宣旨が下った。田村麿は2万騎の軍勢を率いて近江国に向かい、蒲生ヶ原で高丸と争った。その戦では田村麿の優位に進んだので、高丸は常陸国の鹿島浦に逃げていった。田村麿が追って攻めると高丸はその度に逃げていき、やがて日本と唐土の境にある筑羅ヶ沖に逃げ込んだ。

高丸が海に逃げ込んだので田村麿には分が悪かったが、田村麿は果敢に攻め立てた。しかし、迎え討たれて甚大な被害を受けたので、一旦 都に退くことにし、伊勢国の山田で宿を取って兵を休ませた。すると、そこに妻の立烏帽子がやって来て、高丸討伐に手を貸すというので、田村麿は兵を都に帰し、二人で神通の車に乗って筑羅ヶ沖に飛んでいった。

そこで田村麿がどうやって攻めるのかと聞くと、立烏帽子は扇を持って天から12の星を招き、妙な音楽を奏でさせて星の舞を舞った。すると、高丸の娘が舞に興味を示して高丸に見たいと懇願したが、高丸はこれが謀略だと気付いていたので、娘をなだめて舞を見せようとしなかった。

しかし、娘が岩戸を細目に開けて覗いていたので、高丸も気になって隙間に目を出したところ、田村麿が神通の鏑矢を射放って高丸の右目を射抜いた。そこで隙ができたので、田村麿は素早丸、立烏帽子は大通連、小通連、釼明連という剣を使って鬼どもの首を残らず討ち取った。この後、高丸の死骸は肥前国(あるいは備前国)に送られて、塚を築いてそこに祀られた。これが肥前一宮(あるいは備前一宮)になったという。

『日本王代一覧』


延暦20年(801年)、陸奥国の高丸という賊が達谷窟で軍を起こして駿河国清見関まで攻め上った。節刀を賜った坂上田村麻呂が討伐に向かうと、高丸は退いて陸奥国に引き籠もったが、田村麻呂はこれを追って神楽岡で高丸を射殺し、悪路王という賊も討伐した。

『前々太平記』


延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は勅命によって奥州に出立し、賊長の高丸および悪路王と駿河国の清見関辺りで戦おうとしたが、賊は田村麻呂の武勇を恐れて逃げ帰った。田村麻呂はこれを追撃し、高丸を射殺して、悪路王を生け捕りにした。その後、田村麻呂は胆沢の地に八幡宮を建立して弓矢を奉納し、さらに達谷窟に鞍馬寺を模した寺を建立して多聞天像を安置して帰郷した。翌年、田村麻呂は胆沢城の築城のために再び奥州に向かった。その折に降伏した夷賊の張本に、大墓公(アテルイ)、盤具公(モレ)などがおり、田村麻呂は総勢600人の夷賊を連れて帰郷した。

地方の伝説


達谷窟毘沙門堂の縁起(岩手県西磐井郡平泉町)


平安時代、この地には悪路王、赤頭、高丸という蝦夷がおり、岩窟に要塞を構えて悪事を働いて周辺の良民を苦しめていた。これに国府が対応したが、その力では蝦夷を抑えることはできなかった。そこで、桓武天皇は坂上田村麻呂に蝦夷征討の勅命を下して奥州に派遣した。この時、悪路王たちは達谷窟から3000人の賊徒を率いて駿河国の清美関まで攻め入っていたが、田村麻呂が京を出立したと聞いて恐れをなして岩窟に戻っていった。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は蝦夷との激闘の末に岩窟の守りを固める蝦夷を討ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ねて蝦夷平定を果たした。

田村麻呂は此度の戦勝を毘沙門天の加護によるものとし、京の清水寺の舞台を模した弓間四面の毘沙門堂を建立し、堂内に108体の毘沙門天を祀って窟毘沙門堂(窟堂)と名付けた。その翌年の延暦21年(802年)には、別当寺として達谷西光寺を創建し、奥眞所乗人を開基として東西に30余里(120km)、南北に20余里(80km)にもおよぶ広大な寺領を寄進した。

鬼越の伝説(岩手県大船渡市)


昔、この地には「赤頭」という悪鬼の部族が棲んでおり、東征に来た坂上田村麻呂の軍勢と戦って頑強に抵抗していた。しかし、半年あまりの戦いで遂に敗れて、一族は四散してしまった。

この赤頭の頭目は「高丸」という鬼であり、田村麻呂に追討されて2丈(6.06m)ほどの大岩の上に追い詰められてしまった。この大岩の背後は深い淵だったので田村麻呂は遂に追い詰めたと思ったが、高丸が力を振り絞って岩の上から飛び上がると、淵を飛び越えて向こう岸に着地して、そのまま阿修羅のように逃げ去ってしまった。

これ以来、この地を「鬼越」と呼ぶようになったという。

豆渡長者伝説(岩手県八幡平市)


昔、松尾村の長者屋敷の主は周辺の村人たちから「西の長者」と呼ばれていた。この西の長者は、長者山の麓に屋敷を構えて「東の長者」と呼ばれた酒樽長者の娘を嫁に迎えることになった。祝言の日、東の長者は御伴300人に馬88頭という豪勢な行列を率いて長者屋敷に向かった。

ところが、長者屋敷は砦も兼ねた堅固な造りにしていたので、門前に流れる長川にはわざと橋を掛けていなかった。そこで西の長者は部下に命じて豆俵を長川に運ばせ、それを川中に積み上げてあっという間に橋を造ってしまった。このことから長川は「豆渡川」と呼ばれ、西の長者も豆渡長者と呼ばれるようになったという。

その後、長者夫婦は毎年1棟の蔵を新造するほど栄えるようになったが、後に国の南方で大和朝廷の軍勢が侵略戦争を仕掛けてきたので、長者屋敷の一族も参戦を余儀なくされ、その中で西の長者は武勇と人柄が買われて戦の陣頭指揮を司ることになり、平泉の達谷窟で朝廷軍と戦うと西の長者は「梟帥高丸悪路」と呼ばれて朝廷方に恐れられるようになったという。

箆宮権現(箟岳観音)の由来(宮城県遠田郡桶屋町)


延暦2年(783年)、磐井郡の達谷の岩屋を根城としていた蝦夷の頭目・高丸が、駿河の清見ヶ関まで攻め上った。そこで坂上田村麻呂に高丸討伐の勅命が下り、田村麻呂は高丸を箆嶽に追い詰めて射ち殺し、その仲間の悪路王も斬り殺した。その後、田村麻呂は高丸の胴体を丘に埋め、山上に敵味方の遺体を埋葬し、その上に大塚を築いて観音堂を建てた。

また、地主権現の白山の社前の地面に残った矢を突き立てて「もし、再び東夷が起きることがないのならば、この矢は7日7夜の間に生きて枝葉を出すだろう」と誓約した。すると、そのとおりに矢竹から根が生えて生い茂って竹藪となった。それから竹藪の繁った山を箆(のの)と称し、山の権現は箆宮権現(ノノミヤゴンゲン)と呼ばれるようになった。この伝説から正月の25日には この竹を切って矢を作るようになったという。

子松神社にまつわる伝説(福島県田村市)


延暦年間、賊将・高丸悪路王が決起して都を襲おうとしたので、坂上田村麻呂が鎮圧に向かった。田村麻呂は京の祇園社に戦勝祈願し、その加護によって高丸を追い詰めると、高丸は霧島嶽に籠った。その後、高丸は投降の意を示したので田村麻呂は安堵していると、高丸は野に火を放って田村麻呂の軍勢を火攻めにした。

その時、一羽の鷲が飛んできて雨を降らせ、火を消し止めて田村麻呂を救った。これにより、田村麻呂は高丸を討ち取り、後にその鷲を祇園社の神が化身したものと捉えて、この地に鷲大明神として祀った。これが子松神社の始まりとされている。

星宮神社に伝わる伝承(栃木県那須烏山市)


桓武天皇の御代に蝦夷の族長の悪路王が駿河方面まで進撃してきたため、勅命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に当たった。そこで烏山町落合に集結して那須山に籠もった高麻呂(高丸)や、烏山付近で悪路王などの蝦夷を討ったと伝えられている。

悪路王の首級(茨城県東茨城郡)


茨城県東茨城郡城里町高久にある鹿島神社には「延暦17年(798年)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北の蝦夷平定に向かった際、当社に立ち寄って戦勝を祈願した。そして、陸奥国平泉の達谷の窟(一説に下野達谷窟)を本拠地とした蝦夷と戦い、延暦21年(802年)4月に蝦夷の大将の阿弖流為(悪路王または高丸とも)を倒した。その帰途に再び当社に立ち寄った田村麻呂は勝利を感謝して阿弖流為の首を本社前に埋め、それを模した木製の首を造り、神社に奉納した」という伝説があるとされ、その木像は今でも存在しているという。

騒速の伝説(兵庫県加東市)


兵庫県加東市の清水寺は「騒速(そはや)」という大刀を所蔵しており、国の重要文化財に指定されている。寺伝によれば「桓武天皇の頃、征夷大将軍の坂上田村麻呂が丹波路に参籠して蝦夷の逆賊 高麿を討ち取り、鈴鹿山の鬼神退治を遂げた後、大悲観音の霊験を受けた報謝として佩刀騒速、副剣の2振を奉納した」とされている。