虚舟 ― 江戸時代に漂着した未確認物体 ―
虚舟(うつろぶね)とは、江戸時代に常陸国(茨城県)の浜辺に漂着したとされる未確認物体のこと。
書籍やネットで「江戸時代のUFO漂着事件」として紹介されることの多い事件で、今でも様々な説が唱えられている。
なお、これに類似する神話やおとぎ話もあり、日本各地に伝えられている。
基本情報
概要
虚舟は日本の民間伝承の一つで、「うつろ舟奇談(虚舟の蛮女)」と呼ばれる江戸中期の享和3年(1803年)に常陸国(茨城県)で起こった事例が最も有名である。
その内容は「浜辺に異形の船が漂着し、中に乗っていた女は箱を大切そうに持っていた。船内には練り物のような食物が積まれていたほか、見たこともないような文字が書かれていた」といったものになっている。
なお、虚舟(うつろぶね)という言葉自体は「空(から)の船」もしくは「無人の船」のことを指し、「空穂舟(うつぼぶね)」「空舟(うつおぶね)」と呼ばれることもあるという。
また、ウィキペディアによれば、常陸国の事例以外にも 寛政8年(1796年)の加賀国、元禄12年(1681年)の尾張国熱田沖、越後国今町、正徳年間伊予国日振島、明治16年(1883年)の神戸沖などの記録があるらしい。
ちなみに、類似する説話に少彦名神の神話や、興居島(愛媛県)の船越和気比売神社の伝承などがある。
データ
種 別 | 未確認物体 |
---|---|
目撃地 | 日本(茨城県/千葉県ほか) |
年 代 | 江戸時代(1803年) |
備 考 | UFOという説がある |
うつろ舟奇談
うつろ舟奇談について
「うつろ舟奇談」とは、享和3年(1803年)に起こった異形船漂着事件について記された資料に基づく伝承のこと。資料はいくつかあり、内容については各資料によって異なる(詳細は下記の「資料」を参照)。
なお、これらの資料は「著者が現場に立ち会ったもの」と「聞いた話を元に作成されたもの」に分かれるようだ。
あらすじ
享和3年(1803年)、小笠原越中守の知行所である常陸国の浜辺に異形の船が漂着した。この船は釜のような形で窓がついており、底には鉄が筋状に張り付けられている。
中には一人の女が乗っており、異様な風体で若くて美しく、長い髪を背中に垂らしている。箱を大事そうに持っており、人を近寄らせようとしない。また、言葉は全く通じなかった。
船内を調べてみると食物が積んであり、水のほかに菓子や肉を練ったような食物が見つかった。また、敷物もあり、船内には見たこともないような文字がたくさん書かれていた。
・年代:享和3年(1803年)
・場所:常陸国の浜辺(安房国という例外もある)
・外観:釜のような外観で、窓がついている
・乗員:一人の女が乗っており、異様な風体で言葉が通じない
・積荷:練り物のような食物を積んでいる
・特徴:船内に謎の文字が書かれている
・日付:年代は共通するが、時期が異なる
・場所:浜辺の名前が異なる
・船体:大きさが異なる
・結末:結末が有る話と無い話がある
・文字:文字や文字数が異なる
資料
駒井乗邨『鶯宿雑記』
享和3年(1803年)8月2日、常陸国鹿嶋郡阿久津浦の小笠原越中守様の知行所より訴えがあったので、早速見届けに向かったところ、右(画像参照)のような漂流船であることの他、詳しいことは全くわからなかった。そこで、光太夫に遣わされたこともあるという紅毛通じ(西洋の事情通)にも来てもらったが、結局 何も分からなかった。
ウツロ船の中には、年が21~22歳に見える女が一人乗っており、この美女の船の中には菓子や水がたくさんあった。食べ物らしきものには、肉を漬けたようなものが たくさんあった。また、白い箱を一つ持っていたが、これは一向に見せてくれず、無理に見ようとすると とても怒った。
船は朱塗りで、窓はガラス、大きさは縦八間(約14.5m)あまり、横十間(約18.2m)あまり。以上のことは、私が御徒頭として江戸に在勤だったころの話で、何も分からぬまま長崎に赴任したが、その後も どこの国の人だったのかは聞いていない。
・高さは八間(約14.5メートル)
・横幅は十間(約18.2メートル)
・外観は朱色に塗られていた
・ガラス窓だった
・年齢は21~22歳に見える美女
・言葉が通じない
・日本人ではない
・白い箱を持っており、中を見ようとすると起こる
・水・菓子・肉を漬けたようなものがあった
曲亭馬琴『兎園小説』「うつろ舟の蛮女」
享和3年(1803年)の春 2月22日、当時の寄合席・小笠原越中守(石高4000)の知行所である常陸国の「はらやどり」という浜にて、遥か沖の方に舟のようなものが見えた。
そこで、浦人たちが小舟を漕ぎ出して近づき、それを浜辺へと引き寄せて よく見てみると、舟の形は香箱のように丸く、長さは三間(5.45メートル)ほどであった。上の方は硝子障子(ガラス窓)でチヤン(瀝青・樹脂)が塗りつめてあり、底の方は筋状の鉄板が段々に張ってある。これは海底の岩に当たっても壊れないようにしているのだろう。
また、上の部分は透き通って中が見えるようになっていたので、皆で立ち寄って覗いてみたところ、異様な風体の婦人が一人乗っていた。その女は、眉は赤く、顔は桃色で、カツラのような白い長い髪を背中に垂らしている。
(*注釈 『二魯西亜一見録人物』という書物に「女の衣服が筒袖で、腰より上を細く仕立て…云々」また「髪の毛は白粉をぬりかけて結び…云々」とあることから、この蛮女の髪が白いのも、白粉を塗ったためであろう。ロシア属国の婦人ではないだろうか、なお考察すべし)
この蛮女の頭髪は、獣毛か あるいは 撚糸にも見えたが、これを知っているものはおらず、言葉も通じなかったので、どこから来たのか尋ねても何者か分からなかった。
また、この蛮女は二尺(約60センチ)四方の箱を持っており、特別に愛着があるのか 片時も離そうとせず、誰も近づけなかった。そこで、船内にあるものを調べてみると、水二升(3.6L)が入った小瓶があり(一説に二升を二斗、小瓶を小船という話もあるので定かでない)、敷物二枚と菓子のようなもの、また肉を練ったような食物があった。
このとき 蛮女は、浦人たちが集まって話し合っている様子を、ただ穏やかな様子で見守っていた。
そこで古老が このように言った。
「これは蛮国の王の娘がよそに嫁いだものの、密通が発覚して相手の男は処刑され、女はさすがに王の娘なので、殺すのに忍びなく、虚舟に乗せて流すことで、生死を天に任せたのだろう。
もしそうであれば、あの箱の中身は相手の男の首だろう。昔も同じように蛮女が虚舟に乗せられて近くの浜辺に漂着したことがあり、その船中には まな板のようなものに人の首が生々しく乗せられていたという。
この言い伝えを考え合わせれば、あの箱の中身も おそらく その類のものだろう。そのため、蛮女が愛着を持って箱を離そうとしないことにも納得できる。
また、このことが 官府に知れれば きっと金もかかる、これを海に突き流した先例もあることだから…」
ということなので、今回も以前のように舟に女を乗せて、沖に引っ張って推し流してしまった。
もし、思いやりの心があれば、こんなひどいことはしなかったであろうが、こればかりは蛮女が不幸であったというしかない。また、その船内には□□□□(画像右上の四字)などの蛮字がたくさん書かれていたという。
後で思うに、最近 浦賀の沖に来たイギリス船にも このような蛮字があった。ということは、この蛮女はイギリスか、もしくはベンガル、もしくはアメリカの蛮王の娘ではないだろうか。これも推測であるが。
当時の好事家が書き写して伝えたものは、右の通りであった(画像参照)。図説ともに大雑把で具体的でないのが惜しい。もしこれををよく知る者がいるなら、ぜひ詳しく聞かせてほしいものだ。
・横幅は三間(約5.45メートル)
・香箱のように丸く
・船の上方にはガラス窓があり、チヤンが塗り詰めてあった
・底の方には筋状の鉄板が段々に張ってある
・眉が赤い
・顔は桃色
・カツラのような髪型で、白く長い髪を背中に垂らしている(獣毛か撚糸に見える)
・言葉が通じない
・二尺(約60センチ)四方の箱を大切そうに持っている
・水二升(3.6L)が入った小瓶がある(諸説あり)
・敷物が2枚あった
・菓子のような食物があった
・肉を練ったような食物があった
・以前にも同様のことがあった
・古老は密通の罪で流刑になった外国人の女であろうと推察している
屋代弘賢『弘賢随筆』
長橋亦次郎『梅の塵』「空船の事」
享和3年(1803年)3月24日、常陸国の原舎浜というところに異船が漂着した。
その船の形は、中が空の釜のようであり、また真ん中に釜の刃のようなものがあった。これより上は黒塗りで、四方に窓があり、障子はすべてチヤン(瀝青・樹脂)で固められていた。下の方には筋鉄が打たれており、どうやら南蛮鉄の最上品のようであった。船全体の高さは一丈二尺(約3.6m)、横幅は一丈八尺(5.4m)である。
この中には一人の婦人が乗っており、年は20歳ぐらいに見え、身長は五尺(約152cm)、雪のように白い肌で、長い黒髪あざやかに背中に垂れ、とても美しい顔立ちであった。見なれない織物を身に着けており、これを何というのかは分からず、言葉も全く通じない。また小さな箱を持っており、どういうわけか人を近寄らせなかった。
船内には敷物に見えるものが二枚あり、柔らかかったが、何というのかは分からない。食物は、菓子のようなもの、丼に何かを練ったもの、それと肉類があった。また茶碗があり、模様は見事であったが何なのかは分からなかった。
なお、この原舎という浜は、小笠原和泉公の領地である。
・高さは一丈二尺(約3.6メートル)
・横幅は一丈八尺(約5.4メートル)
・釜のような形で、真ん中に釜の刃のようなものがある
・上部は黒塗りで四方に窓があり、窓はチヤンで塗り固めてあった
・下部は鉄が筋状に張られており、材質は南蛮鉄の最上品のようであった
・年齢は20歳ぐらい
・身長は五尺(約152センチ)
・雪のように白い肌で、とても美しい顔立ち
・長い黒髪を背中に垂れている
・見慣れない織物を着ている
・言葉が通じない
・小さな箱を持っており、人を近寄らせなかった
・柔らかい材質の敷物が2枚あった
・食物は、菓子のようなもの、丼に入った練り物、肉類があった
・見事な模様の茶碗があった
著者不明『漂流記集』「小笠原越中守知行所着舟」
小笠原越中守の知行所である常陸国の舎ヶ浜という所に、図のような異形の舟が漂着した。
(中には女が乗っており)年頃は18~20才くらいに見え、少し青白い顔色をしており、眉毛と髪が赤黒く、歯はいたって白く、唇紅を引き、手は少しぶとう(紫色?)であるが、端々はきれいだった。風俗はいたってよろしく、髪は乱れて長い。
図のように箱をとても大切に扱っている。これは品の由緒によるものだろう。そのため人を寄せ付けず、言葉も聞き慣れないものだったので、話はできなかった。
(女の)姿は器量が良く、日本においても美しいといえる方だろう。あちらの国の生まれなのだろうか。
一.鋳物(いもの)2枚はいたって柔軟な物
一.食物は菓子にも見え、また肉を練ったような物があったが、何という食物かは知らない
一.茶碗のような物が一つあり、とても美しく、石があったようにも見えた
一.火鉢らしき物が一つあり、「□明ホリ有鉄」とも見え、また焼物も共に見つかった
一.船内を改めて見廻ってみると、右のような文字が書かれていた
・高さは約3.3メートル
・横幅は約5.4メートル
・船体は紫檀と鉄でできており、ガラスや水晶の窓が付いている
・年齢は18~20歳くらいにみえる
・青白い顔色
・髪と眉毛が赤黒い
・髪は長く、乱れている
・歯は白く、口紅を引いている
・箱を大切そうに持っており、人を近寄らせなかった
・言葉が通じない
・美しい顔立ちで、日本でも美しいと言える方だった
・柔軟な鋳物が2枚あった
・菓子と肉を練ったような食物があった
・美しい茶碗のようなものがあった
・火鉢と焼物があった
・見たことのない文字が書かれていた
茨城県水戸市で発見された古文書
茨城県日立市で発見された史料
長野県で発見された資料
享和3年(1803年)2月5日、小笠原越中守様の御知行所、房州の湊にこのような舟が漂着した。「□□□□(船内の文字参照)」のような文字がある。右、御見分は松原勝五郎殿、早川弥惣右衛門殿である。
(女は)5日ほど生きており、その間に食物を与えたが食べなかった。壷を持っており、中の練り物を食べていた。日本の人を見て手を合わせて何か言っていたが、一向に分からなかった。また、南の方を向いて何か言っていたが、これもまた分からない。
5日目の夕方に「□□□(書き残した文字参照)」を書き残し、死後にその地の寺に葬った。
・外観は釜形で窓が2つで、底には金(挿絵より)
・高さは一丈ニ尺(約3.6メートル)
・横幅は五間(約9メートル)
・見たことのない文字が書かれている
・和風ではない格好(挿絵より)
・髪を美しい布で結っている
・二尺(約60cm)四方の箱を持つ
・箱の中身は直径三寸(約9センチ)の玉
・練り物の入った壷を持っている
・手を合わせて物を言う(挨拶か?)
・南を向いて物を言う
・食物を与えても食べない
・漂着5日後に死亡し、寺に葬られる
・死の直前に知らない文字で何かを書き残した
参考サイト
・やじきた.com
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コメント
1 件のコメント :
いつも お世話になっておりますm(__)m
予言書を発見しました、
見ていただけると光栄です。
日月地神示、大日月地神示、続 大日月地神示
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③このブログは途中から大日月地神示のより分け
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