狒々 ― 人を見て笑う大猿の怪物 ―
狒々(ひひ)とは、日本や中国の山奥に棲息していたとされる大猿のこと。
大きな上唇を持ち、人を見て笑うという特徴があり、狒々の名は その笑い声に由来するといわれている。
また、日本には 自らを神と偽って里人に人身供養をさせていた という伝説もある。
基本情報
概要
狒々は、かつて日本や中国に棲息していたとされる大猿で、日本では猿のような妖怪として伝承されることもある。
中国の本草書『本草綱目』では「狒々は西南夷(中国西南部)に棲息する全身を黒い体毛に覆われた人のような獣で、目を覆えるほどの長大な上唇を持ち、人を見るとよく笑い、体長は大型のもので3メートルほどもある。宋の建武の頃に献上された雌雄の狒々は、赤毛で尾のある猿のような生物で、人語を話したり、人の生死を予知することができ、千斤(500キロ)を持ち上げるほど怪力で、人を捕らえると笑いながら喰った。上唇をかぶせて錐で突き、目隠しすると捕らえることができ、その体毛はカツラの原料となり、血液は染料に利用できる」などと説明されている。
また、江戸時代の『本草綱目啓蒙』では、上記の説明に加え「狒々は、日本でも木曾(現・長野県)、豊前(現・大分県)、薩州(現・鹿児島県)、飛州(現・岐阜県)、能州(現・石川県)の深山に棲んでいる。著者は狒々を"ヤマワロ"と訓じ、山笑、カンキョ人、梟陽人も同じものと考えている」と記している。なお、柳田国男の『妖怪談義』によれば、江戸時代に越後や伊豆で2~3メートルの狒々が捕らえられたこともあるとされている。
このように狒々は山に棲んで人を襲う獣といわれており、北陸や中部地方には自らを神と偽って生贄を喰らっていたという伝承もある。主な説話の流れは「人里に神として祀られており、里を荒らさない代わりに毎年一人の生贄を要求する。生贄には里の娘が選ばれ、その親が助けを求めた 人 や 犬 によって倒される」といったもので、岩見重太郎や悉平太郎・早太郎の伝説が有名である。
なお、上記の伝説は猿神のものと酷似していることから、狒々は猿神と同一であるとも考えられている。また、サトリやヤマワロと性格が似ていることから、これらと混同したり同一視されることもあるようだ。
狒々の正体については、異常発達した猿類 もしくは ゴリラ、チンパンジー、オランウータンなどの大型の猿類という説がある。なお、昭和期に東京の大森貝塚で大きな猿のような骨を見つけたアメリカの動物学者は、日本の古い記録に狒々の伝承があることを知り、この骨を狒々の骨かも知れないと結論づけたという。
・体長2~3メートル
・目を覆うほど長く大きい上唇を持つ
・全身を黒または赤い毛で覆われている
・尾が生えている
・怪力である
・人を見て笑う(威嚇行動という説もある)
・人語を話したり、生死を予知することができる
データ
種 別 | 日本妖怪、UMA、伝説の生物 |
---|---|
資 料 | 『山海経』『本草綱目』『本草綱目啓蒙』ほか |
年 代 | 古代~江戸時代頃? |
備 考 | 猿神と同一視する説がある |
類似する妖怪
山童(やまわろ) ― 九州の山に棲む子供のような妖怪 ―
山童(やまわろ)とは、九州の山奥に棲む妖怪のこと。 子供のような姿で、人語を話し、人のように歩くとされ、飯などを与えれば仕事を手伝うこともあるとされる。
猿神 ― 日本の伝説に登場する猿の妖怪 ―
猿神(さるがみ)とは、日本の説話集や民話に登場する猿の妖怪のこと。 伝説によれば、自らを神と偽って生贄を求めたことから、狩人や犬に退治されたといわれている。
資料
文献
『山海経』
その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う。
交州・広州・南康郡の山中にもいて、大きいものは背丈が1丈(約3メートル)あまりある。俗に「山都」とも呼ばれる。
『本草綱目啓蒙』
ヒヒ。費費とも。蘭山(著者)はヤマワロと訓じている。また、山笑、カンキョ人、梟陽人もこれと同じものとしている。
深い山に住み、日本でも木曾(現・長野県)、豊前(現・大分県)、薩州(現・鹿児島県)、飛州(現・岐阜県)、能州(現・石川県)に住む。人に似て毛深く、猿に似ている。毛は刺のようで赤く、死ぬと抜ける。口が大きく、人を見ると笑う。笑うと唇がめくれ上がって額に届き、目を覆う。
これを捕らえるには、竹筒に手を入れて出せば、狒々は筒を握り唇をめくれ上がらせて笑う。そこで人は竹筒から手を抜いて錐(きり)で唇を額に釘づけてしまえばよい。
カンキョ人、梟陽人は『山海経』に見える。人面で黒い毛があり、唇が長く、人を見て笑い、捕らえるには竹筒を使うとある。狒々と同じものであろう。
『和漢三才図会』
西南夷(中国西南部)に棲息しており、その姿は人に似ている。
頭は髪に覆われていて、走るのが早く、人を捕らえて喰う。黒毛に覆われていて、顔も人に似ているが、上唇が長くて大きく、人を見るとよく笑う。その時に上唇がめくれあがって目にかぶさるほどである。体長は大きいもので一丈(約3メートル)ほどもある。
宋の建武の頃、獠人(中国の古代民族)が雌雄2頭の狒狒を献じたという記録があるが、それは人の顔に似て、赤毛で猿にも似ていて、尾があり、人語を喋ったり、鳥のような鳴き声を出したりし、よく人の生死を予知した。また、千斤の重量を持ち上げるほど怪力で、物に寄りかかってよく眠り、人を捕ると笑いながらこれを喰った。
狒狒を捕らえるには、竹筒で押さえてめくれた唇を額の方に反らし、錐で刺すと目が見えなくなるので、殺すことができる。髪は長いのでカツラの原料になり、その血は染料に利用することができる。
※『本草綱目』の引用とされる
『肯搆泉達録』
黒部山中の事
滑川伊折りの源助という荒っぽい杣頭がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であった。
あるとき源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまった。谷へ入れないので離れようとすると、同行した作兵衛という若い木こりが物の怪に取り憑かれて気を失い、そこに狒狒のような怪物が現れて、作兵衛を宙に放って裂き殺そうとした。
そこで源助は作兵衛を掴み、狒狒と引っ張り合いになりながら「作兵衛を殺したらお前たちも残らず殺す」と言うと、狒狒は手放して立ち去っていった。源助は作兵衛を背負って血まみれになりながら帰ると、夜明けに仲間が助けに来て難を逃れたという。
『妖怪談義』
狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるという。なお、狒々の名はこの笑い声が由来といわれる。
『和訓栞』の狒狒の条には安永以後のある年に伊賀と紀伊に現れたことを記し、さらに天和3年(1683年)に越後国で体長4尺8寸(約182センチ)の狒々が捕らえられ、正徳4年(1714年)には伊豆で7尺8寸(約296センチ)の狒々が捕らえられたという。
ただし、最後のものは狒狒であるか疑わしく、面は人のようだが、鼻は4寸(約12センチ)ばかりで、手足の爪は鎌のようで水かきがあったという。云々
民間伝承
岩見重太郎の伝説(富山県射水市黒河の伝承)
昔、岩見重太郎という豪傑がいた。
ある年の四月の初め、越後から越中に入った重太郎が黒河の地を訪れると、祭の幟が立てられているというのに村中が静まりかえっていた。そこで、村人の理由を尋ねてみると、毎年の祭の日には村から娘を一人選んで神に捧げる決まりになっており、今年は黒田という家の娘が生贄になるのだという。
それを聞いた重太郎は黒田家を訪ねて「神が人を喰うものか、自分が身代わりになってやろう」と言って頼むと、家の者は夢のようだと喜んだ。そこで村人たちに伝えると、重太郎は人身御供の箱に入り、村の若衆によって山の神殿へと運ばれた。
その日の深夜、強い風の音とともに何者かの足音が聞こえ、箱のフタに手がかかった。その瞬間、重太郎は刀を抜いて斬りかかり、その者との闘いが始まった。その激戦は3日も続き、やがて重太郎がとどめを刺した。そこで、その者の正体を確認してみると、頭は猿、身体は獅子、尾は大蛇の化物であったという(狒々や猩々という話もある)。
このとき、重太郎は化物の毒気に当たって重症を負っており、若衆がやって来た時には死人のように倒れて、その傍らに化物の死体が横たわっていたのだという。この後、黒田家に担ぎ込まれた重太郎は、懸命な介抱によって徐々に回復し、すっかり良くなると能登の方に向かって修行を続けた。
また、村ではこの事を記念して、村祭にヨータカ(黒河夜高)を初めたという。
悉平太郎の狒狒退治
昔、行念という僧侶がいた。かつては腕の立つ武士であったが、奉公していた武家が滅んでしまったため、仲間の無念を弔うために僧侶となり、放浪の旅に出ていたのである。
ある日、行念は駿河国の見附村に行き着いた。このときは村の秋祭りで、刈り上げた稲穂が飾り付けられたり、餅つきが行われており、貰った餅を食べながら村を歩いて巡っていると、1軒だけ活気のない家が見つかった。
そこで、不思議に思って覗いてみると、若い娘を囲んで泣いている老夫婦の姿が見えたので、行念が理由を尋ねたところ、どうやら娘が今夜にも人身御供に出されるらしい。
さらに詳しく事情を聞いてみると、見附村の秋祭りは"泣き祭"とも呼ばれており、この時期に白羽の矢が立った家の娘は、見付天神の生贄に出されることになり、もし、捧げなければ田畑は荒らされ、不作が続くのだという。
この話を聞いた行念は、この残忍な神の姿を見届けてやろうと思い、見付天神に向かって境内をくまなく物色していると、宮の中で人の入りそうな長持と、血の付いた着物の袖を見つけたので、ここが生贄の食われる現場だと目星をつけた。
そこで、宮の下に潜って様子を伺っていると、その夜更けに長持を担いだ行列が宮に入り、長持を置いてすぐさま立ち去っていった。しばらくすると、獣臭くて生暖かい風が吹き、やがて赤目の黒い影が次々と現れて、宮に入っていった。
その黒い影は「恐ろしや…恐ろしや…悉平太郎(しっぺいたろう)は恐ろしや…ここに悉平太郎はおるまいな?」と呟き、その 悉平太郎 がいないことを確かめると、長持を乱暴に叩いて、その周りで「あのことこのこと聞かせんな、悉平太郎に聞かせんな、近江国の長浜の悉平太郎に聞かせんな…」などと歌いながら踊りだした。
そのとき、行念は これが神などではないことを確信したが、争っても敵いそうになかったので、悲鳴を上げながら食われる娘の光景を、只々見ていることしかできなかった。
娘の食らい終えると黒い影が去ったので、行念は周囲を確かめてみると、そこには行念の倍もある巨大な足跡が残されていた。そこで、行念は村に戻って自分が見た一部始終のことを伝え、来年また訪れることを約束し、近江国に旅立つことにした。
近江国の長浜に着いた行念は、道行く人や長屋の一軒一軒に"悉平太郎"について尋ねてまわったが、全く知っている者には出会えなかった。それでも行念は根気強く聞きまわったが、何の手がかりも掴めないまま多くの月日が経過していった。
泣き祭の時期が近づいて来た時、ある茶屋で休憩していた行念は店の女将に悉平太郎の話をすると、寺で飼っている犬の名前が悉平太郎だという話を聞いた。そこで早速 その寺に駆け込んで、和尚に見附村のことを話した。
すると、和尚は「悉平太郎は今春に生まれた山犬の子で、母犬と共に世話している内に情が移って、この寺に置いていくように頼むと、母犬は理解したかのように置いていきました」との事情を話した。
また、和尚の傍で行念の話を聞いていた悉平太郎も、事情を理解したかのように行念の足元に歩み寄ってきたので、行念は和尚から悉平太郎を借り受けて、急いで見附村に向かった。
村に着いた行念は、村人に悉平太郎について話すと、最初は半信半疑だった村人も やがて行念の指示に従うことに決めた。そこで、今年の長持には行念と悉平太郎が入ることになり、例年のように宮に運び込まれた。
すると、昨年のように黒い影が次々と現れ、同じように警戒しながら周囲を確認している。続いて、長持を叩き、歌いながら踊り始めると、いよいよ長持の蓋に手がかけられた。
長持の蓋が開いた瞬間、悉平太郎が唸りながら飛び出して黒い影を一つ噛み殺すと、他の影は慌てふためいて狼狽えたので、行念は今度こそ正体を見極めようと、その姿を確かめると それは猿が年を経て化物となった狒狒(ひひ)であった。
悉平太郎は その牙や爪を以って次々と狒狒を倒していき、行念も力になろうと刀を抜いて狒狒と交戦した。すると、狒狒どもは行念に狙いを定めて一斉に飛びかかってきたが、戦で鍛えられた行念は狒狒など物ともしなかった。
そして、明け方に悉平太郎が最後の狒狒にとどめを刺すと、昨年とは違い、行念の目には巨大な狒狒の亡骸が散乱する光景が写った。こうして役目を終えた行念は村に帰って報告すると、村人たちは大変喜んで彼らに感謝を重ねた。
この後、行念は悉平太郎を連れて長浜の寺に帰り、和尚にもこれを報告した。なお、悉平太郎は成長しても山には帰らずに和尚の元で生涯を終えたという。
早太郎の伝説
室町末期、駒ヶ根にある光前寺の本堂の下に山犬が棲み着いて、5匹の子犬を育てていた。
寺の者たちは山犬に精がつくものを与えて見守っていたが、その内に母犬は一匹の子犬を残して山に帰っていった。残された子犬は早太郎と名付けられ、機敏に動くことから疾風太郎とも呼ばれて可愛がられていた。
その頃、駒ヶ根を流れる天竜川の下流、遠江国府中の天神社に生贄を求める神が居た。この神は年に一度の祭に若い娘を差し出さなければ、大雨を降らせたり、川を氾濫させるなど害をなすので、住民は生贄の風習を止めることができなかった。
祭の日、ここを通りかかった一実坊弁存という山伏が、その神の正体を暴くつもりで様子を伺いに来た。その日の深夜、娘が入った長櫃が置かれた祭壇を見ていると、歌とも独り言ともつかないおかしな声が聞こえ始めた。
そこで、耳を澄ませてよく聞くと「信州の、早太郎はおるまいな…」などと複数の声が聞こえ、その声の主は長櫃を壊して中の娘を拐って どこかへ去ってしまった。
この様子を目撃した弁存は、これが神ではなく人を食う怪物だと断定し、それらが恐れる早太郎を探し出すことにした。そこで、弁存は住民たちに早太郎について聞きまわったが、この付近に早太郎を知る物は誰一人居ない。
そのため、会話にあった「信州」まで足を伸ばし、数ヶ月かけて光前寺の早太郎がいることを突き止めた。弁存は寺の者に事情を話し、早太郎にも話を聞かせると、早太郎は尻尾を振って怪物退治に応じる様子を見せた。
翌年の祭の日、弁存は住民らに事情を話し、生贄の代わりに早太郎を長櫃に入れることにした。そして、長櫃を祭壇の前に置くと、弁存と住民らはその場を離れた。
その翌日、人々が神社に集まると、そこには血まみれになって倒れている狒々の姿があった。しかし、狒狒を倒した早太郎の姿はそこにはなかった。それから数日後、光前寺に血だらけの早太郎が現れ、怪物退治を告げるかのように一鳴きすると息絶えてしまった。
このことを知った弁存は、早太郎の菩提を弔うために大般若経六百巻を写経して光前寺に奉納した。また、光前寺では早太郎の墓を作り、人々の難儀を救った霊犬として弔った。
以来、早太郎は厄除けの霊犬として広く信仰を集めたという。
神社仏閣・イベント
静岡県
・矢奈比賣神社(磐田市):狒々を退治した悉平太郎の伝説がある神社(見付天神とも)
・しっぺい(磐田市):狒々を退治した悉平太郎がモデルのゆるキャラ
長野県
・光前寺(駒ヶ根市):狒々を退治した早太郎ゆかりの寺院
富山県
・黒河夜高祭(射水市):岩見重太郎の狒々退治に由来する祭(毎年8月下旬)
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