鵺/鵼/恠鳥/夜鳥/奴延鳥【ヌエ】
珍奇ノート:ヌエ ― 平安時代に皇居に現れた妖怪 ―

鵺(ぬえ)とは、平安時代に皇居に現れたとされる妖怪のこと。

様々な動物が合わさったような身体を持ち、ヒョーヒョーといった不気味な声で鳴くとされている。


基本情報


概要


ヌエは『平家物語』や『源平盛衰記』などに登場する妖怪であり、様々な動物を合わせたような身体を持ち、鵺のような声で鳴くとされる。これらの文献によれば、毎晩のように皇居に現れて天皇を怯えさせるので、勅命によって源頼政が射落とし、猪早太が取り押さえてとどめを刺したとされている。

特徴については文献によって異なり、『平家物語』では「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、鳴声は鵺」、『源平盛衰記』では「頭は猿、背は虎、尾は狐、足は狸、鳴声は鵺」となっている。この他にも「頭は猫、身体は鶏、尾は蛇」というものや、羽が生えていたという伝説もある。

なお、「鵺」とは元は「夜に鳴く鳥」を指す言葉であり、現在はトラツグミのことであるとされている。その一方、この妖怪には具体名がなく「鵺の声で鳴く得体の知れないもの」という表現でしか記されていない。よって、この妖怪は「鵺の声で鳴く」という特徴が転じてヌエと呼ばれるようなったと考えられている。

また、日本各地にはヌエに関する社寺や史跡などがいくつかある。例えば 京都・大阪・兵庫にはヌエを埋めたと伝わる鵺塚があり、京都の神明神社には鵺退治に用いられた鏃が保管されているとされる。また、鵺伝説にちなんで大阪港の紋章のモチーフにもなっている。

データ


種 別 日本妖怪
資 料 『平家物語』『源平盛衰記』など
年 代 平安時代
備 考 レッサーパンダ説がある

類似する妖怪




鵺退治の伝説


源頼政による鵺退治(あらすじ)


珍奇ノート:ヌエ ― 平安時代に皇居に現れた妖怪 ―

平安末期、夜な夜な黒煙が清涼殿を覆い、不気味な鳴声が響き渡った。

天皇は恐怖のあまり病の身となり、薬や祈祷も効き目はなかった。そこで、公爵らは会議を開き、源平両家の武士の中から選りすぐって、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。

ある夜、頼政は家来の猪早太(井早太)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓を手にして怪物退治に向かうと、清涼殿を不気味な黒煙が覆いはじめたので、頼政は山鳥の尾で作った尖り矢を放った。

すると、悲鳴と共に化物が二条城の北方あたりに落下したので、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを刺した。なお、その化物は 頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎 という姿であり、鳴声は鵺に似ていた。

その後、清涼殿には静けさが戻り、天皇の体調もたちまち回復しので、天皇は褒美として獅子王という剣を与えた。また、この化物の死体は空の舟に乗せられて川に流された。

鵺の特徴


・平家物語:頭はサル、胴はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラ、鳴声はヌエ
・源平盛衰記:頭はサル、背はトラ、尾はキツネ、足はタヌキ、鳴声はヌエ
・看聞日記:頭はネコ、身体はニワトリ、尾はヘビ

退治後の伝説


・摂津名所図会:鵺の死体は芦屋川と住吉川の間に流れ着き、近隣住民によって鵺塚に葬られた
・芦分船:鵺の死体は淀川下流に流れ着き、祟りを恐れた村人によって鵺塚に葬られた
・源平盛衰記:鵺は京都の清水寺に埋められた
・転生伝説:鵺の死霊は頼政の馬となり、平家との争いの原因となって復讐を果たした
・静岡県の伝説:鵺の死体は浜松に落ち、落ちた各部位は地名由来となった
・愛知県の伝説:鵺の正体は頼政の母で、退治された後に元の場所に帰っていったが矢傷が原因で死んだ



『平家物語』『摂津名所図会』ほか



京都の人々は鵺の祟りを恐れ、死体を船に乗せて鴨川に流した。

淀川を下った船は大阪東成郡に一旦漂着した後、海を漂って芦屋川と住吉川の間の浜に打ち上げられたので、芦屋の人々は屍骸をねんごろに葬り、鵺塚を造って弔ったという。

『芦分船』



淀川下流に鵺の死体が流れ着いたので、祟りを恐れた村人たちは母恩寺の住職に告げた。

住職は ねんごろに弔うことにし、死体を土に埋めて塚を建ててやった。

明治時代に塚が取り壊されかけたとき、鵺の怨霊が近隣住民を悩ませたため、慌てて塚が修復されたという。

『源平盛衰記』『閑田次筆』



鵺は京都府の清水寺に埋められた。

江戸時代に、それを掘り起こしたために祟りがあったという。

転生伝説(出典不明)



鵺の死霊は一頭の馬となり、木下と名づけられて頼政の飼われることになった。

木下は良馬であったために平宗盛に取り上げられ、これを契機に頼政は平家と争って身を滅ぼすことになった。

こうして鵺は宿縁を晴らしたのである。

静岡県の伝説



鵺の死体は静岡県の浜名湖西方に落ち、浜松市北区はその落ちてきた体の部位に因んでいる。

鵺代(頭部)・胴崎(胴体)・羽平(羽)・尾奈(尾)。

愛知県の伝説



愛媛県上浮穴郡久万高原町には、鵺の正体は頼政の母だという伝説がある。

平家全盛の時代、頼政の母が故郷のこの地に隠れ住んでいた。山間部の赤蔵ヶ池には龍神が棲んでおり、母は池の主である龍神に対して、息子の武運と源氏再興を熱心に祈っていた。

あるとき、母が祈祷をしている最中に平家への憎悪によって鵺に化身し、京都に飛んでいった。鵺に変じた母は 自らが天皇の病の原因となり、息子に自身を退治させることによって手柄を上げさせた。

なお、頼政の矢に貫かれた鵺は、赤蔵ヶ池に戻って池の主となったものの、矢傷が元で命を落としてしまったという。


資料




『平家物語』





近衛天皇(第76代天皇)の御代である仁平の頃、天皇が夜な夜な怯えて恐れることがあった。そこで、効験のあるという高僧・貴僧に大法・秘法を行わせたが特に効験は見られなかった。天皇の発作は丑の刻の頃であったが、それは東三条の森の方から一群の黒雲が現れて御殿の上を覆ったときに決まって天皇は怯えていたという。そこで、公卿らは集まって会議を開くことにした。

去る堀河天皇(第73代天皇)の御代である寛治の頃にも、同様に天皇が夜な夜な怯えることがあった。その時の将軍である源義家(みなもとのよしいえ)は紫辰殿(ししんでん)の広庇(ひろびさし)にて伺候(さもらい)していたが、発作が起こる時刻に弓の弦を3度鳴らして「前の陸奥守源義家」と名乗ると、皆の身の毛がよだって天皇の病気も快癒したという。

そこで、先例に倣って武士に警護させることとし、源平両家の武者の中から適任となる者を選び出した。そこで源頼政(みなもとのよりまさ)が選ばれたが、頼政は当時は兵庫頭であったこともあって「昔から御皇室に武士を置かれるのは、逆賊を撃退し、勅命に背く者を滅ぼすためであります。目にも見えない変化の物を退治せよと命は、未だに承ったことがありません」と申し上げた。とはいえ、勅命であったことから これに応じて参内することになった。

頼政は、信頼する郎等である井早太を連れ、井早太に鳥の風切羽で作った矢を背負わせていた。また、頼政自身は、二重の狩衣(かりぎぬ)を着て、山鳥の尾で作った尖矢を2本を滋籐(しげどう)の弓に添え持った。そして、紫辰殿の広庇に伺候した。なお、頼政が矢を2本持っているのは、その時の左少弁であった源雅頼卿が頼政を選出したことから、もし、一の矢で変化の物を射損じようものなら、二の矢で雅頼の首の骨を射るためのものである。

その後、近衛天皇が発作を起こす時刻がやってくると、東三条の森の方から黒雲の一群がやって来て御殿の上に棚引いた。そこで、頼政が黒雲を見上げると その中には怪しい物(変化の物)の姿が見えたので、もし、射損じたのであれば、この世に生きていようとは思わなかった。しかしながら、矢を構えて「南無八幡大菩薩」と心の中で祈念しながら弓を引くと、矢が変化の物に当たったという手応えがあったので、「仕留めたぞ、おう」と矢叫びを上げた。

また、郎等の井早太は変化の物が落ちてきたところを取り押さえ、続け様に丸太刀を刺した。そして、御所の上下の人々が手に火を灯して その物の様子を見てみれば、それは 頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしており、その鳴き声は鵺(トラツグミを指すとされる)に似ていた。これは"恐ろしい"という言葉では言い尽くせない物であった。

その後、天皇は変化の物を討ち取った頼政の功に感心を示して"師子王"という御剣を与えることになった。この御剣は宇治の左大臣が取り次いで頼政に与えるのであるが、天皇が御前の階段を半ばほど下ったところで宮中にホトトギスの鳴声が2、3度響き渡った。そのとき、左大臣が「ホトトギスが名を雲間に上げるように、そなたも勇名を宮中に上げることになったな」と言うと、頼政は右膝をつき、左の袖を広げ、月を横目に見ながら「弦月のある方向に従って弓を張っただけです」と申し上げて、御剣を受け取って退出した。

なお、頼政は天皇や臣下から「弓矢を取っても並ぶ者は無く、歌道にも優れた者である」と評価されたという。また、この変化の物は空の舟に入れられて流されたということであった。

その後、二条天皇(第78代天皇)の御代である応保の頃、鵺(ぬえ)という化鳥が宮中で鳴いて、しばしば大御心を悩ませる事があったので、先例に倣って頼政を召しだした。その頃は5月20日あまりの宵の事であり、鵺は ただ一声鳴いて、二声とも鳴かなかった。また、目標を探そうにも辺りは深い闇に包まれており、鵺の姿形も見えなかったので的も定め難かった。

そこで、頼政は まず大きな鏑矢を取ってつがえ、鵺の声がした内裏の上へと射上げた。すると、鵺は鏑の音に驚いて虚空でしばらくの間「ヒヒ」と叫んでいた。次に小さな鏑矢を取ってつがえ、それを射抜くと 鵺と鏑矢が並んで前に落ちてきた。

これに宮中はどよめき合い、天皇も並々ならぬ感心を示した。そこで、天皇から頼政に御衣が与えられることになり、それを大炊御門の右大臣が取り次いで頼政の肩に掛けようとした時に「昔、養由基(ようゆうき、中国の弓の名手)は雲の上の雁を射たという。今の頼政は雨の中で鵺を射た。五月闇の中で勇名を馳せる今宵だな」と感心して話しかけると、頼政は「誰か見分けのつかない夕暮れ時も過ぎたと思いますが」と申し上げて、御衣を肩に掛けて退出した。云々



『看聞日記』



応永23年(1416年)4月25日夜、北野天満宮に怪異が現れたので宮司が射殺した。それは河に捨てられたが、頭は猫、身体は鶏、尾は蛇であった。この事は天皇の上聞に達して褒美として太刀を賜ったという。



『今昔画図続百鬼』


珍奇ノート:ヌエ ― 平安時代に皇居に現れた妖怪 ―

鵼は深山に棲む化鳥である

頭は猿、足手は虎、尾はヘビのような怪物で、源頼政によって射落とされた。

鳴声が鵼に似ていたので、ぬえと名づけられた。


史跡・神社仏閣・イベント


新潟県


・矢島(佐渡郡):鵺を射った矢の材料である竹の群生地という伝説がある

石川県


・能登中居鋳物館(鳳至郡):鵺退治で役立った八朔灯籠が保管されている

静岡県


・伊豆長岡温泉(伊豆の国市):毎年1/28に鵺払い祭が開催される

京都府


・鵺大明神(上京区):頼政に射られた鵺が落ちた場所と伝えられ、昭和初期に社が建立された
・鵺池(上京区):二条公園にあり、鵺を射った矢を洗った場所と伝えられている
・神明神社(下京区):頼政が鵺を射った矢の鏃が保管されている
・大将軍神社(東山区):鵺退治の舞台となった場所とされる
・鵺塚(伏見区):鵺を埋めたと伝わる塚
・矢根地蔵(亀岡市):頼政が鵺退治に使用した矢について助言を告げた地蔵が祀られる
・頼政塚(亀岡市):鵺退治をした源頼政の首塚(宇治平等院の戦いに敗れて自害)

大阪府


・鵺塚(都島区):鵺の死体が流れ着き、塚に葬られたと伝わる

兵庫県


・鵺塚(芦屋市):鵺の死体が流れ着き疫病が流行ったため、塚を建てて祟りを鎮めたと伝わる
・長明寺(西脇市):頼政の所領地で頼政と妻の墳墓があり、鵺退治像もある

備考


レッサーパンダ説


珍奇ノート:ヌエ ― 平安時代に皇居に現れた妖怪 ―

JR東日本の新幹線車内誌「トランヴェール」2016年9月号にて"ヌエの正体はレッサーパンダである"といった古生物学者の新説が発表された。『源平盛衰記』に登場するヌエの特徴の一つに"尾はキツネ"とあることからヒントを得て この発想に至り、レッサーパンダの身体的特徴や習性が合致することから、この説が生まれたのだという。

なお、新潟県長岡市では約3000万年前のレッサーパンダの化石が発見されており、その化石からは当時の体長は現存種の1.5倍ほどの大きさだと推測されているようだ。しかし、平安時代にレッサーパンダがいたかどうかは不明である。