猿虎蛇【サルトラヘビ】
珍奇ノート:猿虎蛇(さるとらへび) ― 岐阜県に伝わる伝説の怪物 ―

猿虎蛇(さるとらへび)とは、岐阜県の伝説に登場する怪物のこと。

頭は猿、胴は虎、尾が蛇 というヌエに似た姿であり、人に危害を加えるため藤原高光に退治されたといわれている。


基本情報


概要


珍奇ノート:猿虎蛇(さるとらへび) ― 岐阜県に伝わる伝説の怪物 ―

猿虎蛇は岐阜県旧洞戸村(現・関市)に伝わる伝説の怪物で、名前の通り 頭は猿、胴は虎、尾が蛇 という姿であったとされ、牛のような奇妙な声で鳴いたという話もある。また、黒雲に乗って長距離を移動することができ、瓢箪や蕪に化けたり、地鳴りを起こしたり、真夏に大雪を降らせるといった怪異を為すこともできるようだ。

ただ、この伝説は口伝であるため 様々なバリエーションがある。共通する内容としては、昔 高賀山に猿虎蛇が棲みついて人々に害を為したので、勅命によって京都から藤原高光が派遣され、神託を得て猿虎蛇を退治した といったものであり、藤原高光の派遣理由や猿虎蛇退治の描写が異なることが多い。

なお、藤原高光は平安時代(939~994年)に実在した人物で 右少将を歴任しており、和歌の名人としても知られている。高賀神社の記録である『高賀宮記録』によれば、高光は 牛の角を持った大鬼 や キジのような鳴き声を発する大鳥 も退治したとされているが、その時期が承平3年(933年)となっているので時代のズレも指摘されている。

また、高賀の古文書に猿虎蛇退治の記録がないことから、『平家物語』に登場するヌエの伝説が持ち込まれて口伝されていったのではないかという指摘もある。その反面、猿虎蛇伝説に基づく神社や、伝説に因む場所もいくつか存在するようだ。

猿虎蛇の特徴
・頭はサル
・胴はトラ
・尾がヘビ

データ


種 別 伝説の怪物
資 料 『高賀宮記録』
年 代 平安時代
備 考 伝説は口伝

類似する妖怪




伝説




猿虎蛇伝説



昔、高賀山に魔物が棲んでいた。この魔物の正体は分からなかったが、度々 人里に降りてきては田畑を荒らし、女,子供を連れ去っていった。それだけでなく、真夏に大雪を降らせることもあった。村人たちはずっと堪えていたが、遂に我慢も耐えかねて、都に軍勢を送ってもらうよう頼むことにした。

この後、帝の勅命を受けた藤原高光が部下を引き連れて高賀の里に訪れたが、山での戦いに不慣れな武士達は上手く魔物を攻めることができなかった。長期戦になると読んだ高光は、村人と協力して攻める計画を立て、まず 高賀山の麓に宮を造って村人と共に戦勝を祈願した。

ある夜、高光の夢の中に神が現れて「ふくべ(ひょうたん)の中の動かぬものを討て」とのお告げを下した。一行は早速 高賀山から続くふくべヶ岳に向かうと、その頂上の沼のほとりにあった巨木には ひょうたんのつるが巻き付いていた。そのひょうたんを見ると、中でも一際大きな物がある。

高光は「夢のお告げは これに違いない」と思って その大きな瓢箪を射ると、山を揺るがすような大きな悲鳴が上がり、そこには 頭は猿、胴は虎、尾は蛇 の化物の死体が横たわっていたという。

なお、菅谷には今でも高光が草鞋を履き替えたという「草鞋が森」があり、矢柄を作ったという「矢作神社」がある。また、ふくべヶ岳の麓の川の畔には、高光が村人と共に必勝祈願したという六つの宮が大切に祀られている。



岐阜県洞戸村の民話



高賀山には"猿虎蛇(さるとらへび)"という化物が棲んでいた。

この化物は体長は5メートルほどで、 頭は猿、胴は虎、尾が蛇という奇妙な姿をしており、牛のような声で鳴いた。

ある日、猿虎蛇が京都で天皇(または公家)の子供をさらって殺したので、勅命によって藤原高光が派遣されて来た。

高光が神社を建てて妖魔を山に閉じ込めると、後に「瓢ヶ岳の動かない瓢箪が猿虎蛇の真の姿だ」という神託を得た。

そこで、瓢ヶ岳に登った高光が お告げの通りに動かない瓢箪を射ると、見事に猿虎蛇を倒すことができた。

猿虎蛇の屍骸はオツガワラという所で焼いたが、そこには今でも草が生えないという。

また、猿虎蛇の喉仏は宮に納められ、これを外に出すと雨が降ったという。



高賀神社の伝説



奈良時代、高賀山に妖魔が住みついた。この妖魔は夜になると黒雲を駆けて出没し、この地をはじめ 遠く離れた都の人々にまで危害を加えて帝を悩ませた。そこで、帝は藤原高光に妖魔退治の勅命を発し、これを以て藤原高光は20数名の御伴を連れて高賀の里を訪れた。

高光らは里の峯や谷を隈なく探したが、そこに妖魔の姿はなく、成果もないまま数日を経た。それもそのはず、妖魔はある時は"ふくべ(ひょうたん)"に、ある時は"かぶら"に化けて、高い峯や深い谷など住処を転々とし、正体を隠していたのである。

そこで、高光は高賀神社の神前に21日間通って願をかけた。その甲斐あって、満願の日に神が瓢ヶ岳に降臨し、高光に必殺の弓矢を下して、山奥深くに先導した。一行は道中で妖魔の妨害に遭いつつも、妖魔の気配のする巨大な岩堂の前に辿り着いた。

岩堂に突入すると、妖魔も猛然として襲いかかってきて、幾度かの攻防の後 遂に追い詰められてしまったが、高光は神から授かった弓矢に満身の力を込めて放つと、猛々しかった妖魔も大音をたてて地に伏した。

それから熱戦の末に妖魔を取り押さえてみれば、それは 頭は猿で胴は虎、尾は蛇の姿の妖怪であった。この妖怪にとどめを刺そうと高光が跨ると、妖魔は尾の蛇までも大口を開けて激しく抵抗したが、遂に高賀神社の神より下された力によって仕留めることに成功したという。

高賀神社は養老元年(717年)創建の古社であり、勝負の神、弓矢の神、大願成就の神であり、降伏魔災の祈願所として広い崇敬を集め、今日に至っている。



美濃市の金峰神社の由緒



天暦年間(947~957年)、高賀にさるとらへびという妖怪が棲みつき、村人に危害を加えていた。

この話を聞いた朝廷は藤原高光を派遣し、高光が最初にさるとらへびを発見したのが この地であるとされる。このことから、当地は「形知」と名づけられ、形知の社として創建されたのが今の金峰神社である。



郡上市の星宮神社の由緒



天暦年間(947~957年)、高賀にさるとらへびという妖怪が棲みつき、村人に危害を加えていた。この話を聞いた朝廷は、藤原高光を派遣して さるとらへびを退治させた。

この時、高賀山大本神宮大行事神社(現・高賀神社)を再建し、七昼夜妖怪退治の祈願をした。その後、高賀山麓の六ヶ所に神社(高賀六社)を建立し、星宮神社はこの高賀六社の一つとして創建された。

伝説によれば、藤原高光がこの周辺に来たときに道に迷ってしまったが、粥川谷の鰻が正しい道を教えたことにより、無事さるとらへびを退治することができたという。このことから、粥川では鰻を採ることも食べることも禁止された。

また、粥川谷は義貴星という神が高光に粥を施した地ともいわれ、粥川の中流域には藤原高光が用いた矢を納めたと伝わる矢納ヶ渕もある。



美濃市の瀧神社の由緒



天暦年間(947~957年)、高賀にさるとらへびという妖怪が棲みつき、村人に危害を加えていた。この話を聞いた朝廷は、藤原高光を派遣して さるとらへびを退治させた。この時、高賀山大本神宮大行事神社(現・高賀神社)を再建し、七昼夜妖怪退治の祈願をした。

なお、高光が高賀から さるとらへび を追って乙狩谷に来た時、山全体が黒雲に包まれて進めなくなってしまった。そのとき矢を黒雲の中に放つと雲が無くなり、やがて滝にたどり着いた。この滝の付近の洞が さるとらへび の棲家であり、高光が滝の近くで野宿をしていると、滝の神々が妖怪を追い払う夢を見た。そこで滝の畔に建立した祠が、今の瀧神社だという。


史跡・神社仏閣


岐阜県


・高賀神社(関市):藤原高光が再建して、七昼夜 妖怪退治の祈願をしたと伝わる
・矢作神社 (関市):高賀山の神が猿虎蛇討伐のための矢を作るように命じ、矢柄を作ったとされる
・瀧神社(美濃市):猿虎蛇の住処の近くで、藤原高光の夢に瀧神が現れたことで建てられた祠に由来する
・金峰神社 (美濃市):藤原高光が最初に猿虎蛇を見つけた地とされる
・那比新宮神社(郡上市):猿虎蛇が退治した後に建てられた神社
・本宮神社(郡上市):藤原高光によって創建されたと伝わる
・星宮神社(郡上市):藤原高光に義貴星という神が粥を施した地とされる
・矢納ヶ渕(郡上市):当地を訪れた藤原高光が道に迷った時、粥川谷の鰻が正しい道を教えたとされる