八面大王【ハチメンダイオウ】
珍奇ノート:八面大王 ― 魏石鬼窟に棲んでいた伝説の鬼 ―

八面大王(はちめんだいおう)とは、長野県安曇野市の魏石鬼窟に棲んでいたされる伝説の鬼のこと。

魔力と暴力を使って地元の人々を苦しめていたため、征夷大将軍の坂上田村麻呂に討伐されたと伝えられている。

その一方で、民衆のために戦った義賊とする説話や、8人の盗賊の首領だったという説話もある。


基本情報


概要


八面大王は長野県の安曇野に伝えられている鬼で、魔力を使って雲や雨風を呼んだり、空を飛行することができたという。容姿については伝説であまり触れられていないが、首塚のある筑摩神社の由緒によれば、身の丈は10余尺(3m以上)で、顔は見るも恐ろしいほどの鬼面であったとされる。また、八面大王は自らこの名を名乗ったとされ、他に魏石鬼(または義死鬼)という呼び方がある。そのため、魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)と呼ばれることもある。

安曇野には八面大王についての伝説がいくつかあり、その内容は説話のそれぞれによって微妙に異なるが、概ね以下のような内容になっている(詳しくは「八面大王の伝説」を参照)。

桓武天皇の御代(平安時代)、有明山の麓の魏石鬼窟に八面大王という鬼が棲んでおり、ここを根城にして手下を連れて人里を荒らしていた。これを聞いた坂上田村麻呂が討伐に向かったものの、八面大王が魔力を使って矢を弾くので近づくことができなかったので、田村麻呂が観音堂に籠って祈願すると「33節の山鳥の尾で作った矢を使えば、大王の魔力に防がれることはないだろう」という夢の告げがあった。

そこで田村麻呂は信濃の国中にその山鳥を探させる旨の布令を出すと、弥助という者が山鳥の尾を使った矢を献上してきた。この矢は弥助が以前に助けた山鳥の尾で作ったもので、その山鳥は人に化けて弥助の妻となっており、その恩返しとして自らの尾羽を残して去ったという。山鳥の矢を手に入れた田村麻呂が これで八面大王を討つと、魔力で防がれること無く射抜くことができ、これを以って八面大王は討ち取られた。八面大王の死体は、魔力によって蘇ることを恐れられて五体を切り離されて埋葬されることになった。大王の耳は「耳塚」、足は「立足」、首は「筑摩神社」、胴は「「御法田の大王農場」に埋められたという。

一説によれば、討伐された大王の血が雨となって降り注いで人々に病を蔓延させたので、田村麻呂が観音堂を建てて祈願すると「近くに温泉が湧くので、これに浸かって病を治せ」という告げがあり、人々はその温泉で病を治したという。この温泉は有明山にある中房温泉のことだとされている。

また、八面大王の伝説には、民衆のために大和朝廷と戦った義賊であるとするものや、金太郎の父親とするもの、その他に『信府統記』にある魔動王伝説や『仁科濫觴記』にある八面鬼士大王の伝説がある。

しかし、自分が調べた限りでは八面大王の伝説には「8つの顔を持つ」といった具体的な記述がなく、なぜこのような名前を名乗ったのかは不明である(一応、『仁科濫觴記』には8人の盗賊の首領が顔を色とりどりに塗って「八面鬼士大王」と名乗ったという記述はあるのだが…)。

データ


種 別 古代の人物、鬼
資 料 『仁科濫觴記』『信府統記』ほか
年 代 平安時代
備 考 正体については鬼説と8人の盗賊説がある

八面大王の諸説


民衆の英雄説


八面大王の胴体の埋葬地である大王わさび農場の案内板などによれば、安曇野には悪鬼とされた八面大王を英雄視する伝説も残されているとされ、以下のような内容になっている。

大和朝廷が東北の蝦夷征討に向かっていた頃、信濃国を足がかりとして当地の人々に貢物や無理難題を押し付けて苦しめていたので、これを見かねた八面大王が立ち上がって坂上田村麻呂の軍勢に挑み、多勢に引けを取らずに奮戦したが、最後は山鳥の尾羽で作られた矢で射られて倒れてしまった。その後、大王が蘇ることを恐れた朝廷は、大王の体を切り離して別々の場所に埋めたという。

一説にこの伝説における八面大王は「やめのおおきみ」と読むとされ、この伝説では義賊として伝える内容となっている。

金太郎の父説


長野県大町市にある大姥山には金太郎伝説がある。この伝説によれば、金太郎の母は大姥で父は八面大王とされており、以下のような内容になっている。

昔、信州八坂の一番高い山に大姥(おおうば)が棲んでおり、有明山の八面大王と恋仲になって、やがて間に男児を儲けた。これが金太郎である。金太郎は熊と相撲を取りながら育ったので、幼くして怪力を備えていた。

金太郎が6歳の時、源頼光が勅命を受けて諸国の鬼退治をしており、ある時に強力な鬼との戦いに苦戦した頼光が大姥に相談したところ、金太郎を連れていくように助言されたので、その通りにすると鬼を倒すことができた。これより、頼光は金太郎に坂田金時と名乗らせて、頼光四天王に加えたという。

これと同様の説話に大姥を「紅葉鬼人(もみじ鬼人)」とした説話もあり、一説に紅葉鬼人は八面大王と同様に坂上田村麻呂に討伐されたという説話もある。

魔動王の伝説


江戸時代の地誌である『信府統記』には、中房山に棲んでいた魔動王という鬼神の伝説が記されており、以下のような内容になっている。

中房山の鬼神が人里に降りて人々を悩ませたので、諸々の神が力を合わせて滅ぼした。鬼神の名は魔動王と言い、その戦で討たれた鬼族は136にのぼった。討ち取った首は塚に埋められ、当初は耳塚といったが、後に飯塚とよばれるようになり、今は鬼塚と呼ばれている。この鬼神を討伐した際に、旌旗を神体として宮を築いた。これが筑摩神社である。

八面大王という名は記されていないものの、内容はほとんど同じようなものになっている(筑摩神社の「飯塚の由来」には八面大王の説話として同じような伝説が紹介されている)。

8人の盗賊説


仁科氏の歴史を伝える『仁科濫觴記』には、八面鬼士大王と名乗った8人の盗賊を討伐したという話が記されており、以下のような内容になっている。

奈良時代末期に信濃の有明山周辺で盗難騒ぎが相次いだので、地頭らに探らせると鼠賊という盗賊の仕業であると分かった。そこで巣窟を特定して待ち伏せしたが動きが読まれているようでなかなか捕まらない。その後、盗賊は中分沢に拠点を変え、8人の首領を持つ集団になった。首領らは顔を色とりどりに塗って「八面鬼士大王」と名乗り、手下と共に強盗を働いた。

そこで仁科和泉守は家臣を都に派遣して鬼賊追討の宣旨を受け、作戦を立てて鬼賊の巣窟に攻め入り、追い詰めたところで大将の田村守宮が「このたび勅命によってお前たちを成敗することになった。しかし、罪は重いとはいえ、未だに人命を害していない。速やかに降参するなら命は救ってやろう。だが、手向かうならば手下に至るまで命は無い。どうする」と問うと、首領の中で最も目上の者が「承知しました。私の命はともかく、手下の命はお救いください」と言ったので、賊をすべて捕らえることができた。

賊には最終的に「頭領は両耳を削ぎ、その他は片耳を削いだ上に国外追放に処する」という刑が言い渡された。刑の執行日、下役人が耳削ぎの準備をすると恨みを持つ者が 我も我も と騒ぎ立て、70余人の手下と8人の頭領の耳削ぎが執行された。この耳は血に染まった土砂と共に塚に埋められて「耳塚」と呼ばれるようになった。この後、賊は縄を解かれて国外追放となったが、頭領はう恨みを持つ者が連行し、落とし穴に落とされて生き埋めにされるという私刑に処された。よって、首領が埋められた山を「八鬼山」と呼ぶようになった。

かなり内容を端折ったが、この説話では八面大王が8人の盗賊の頭領のこととして伝えられている(しかし、奈良時代なのに地頭が存在しているなど、ツッコミどころが散見される)。

魏石鬼八面大王の関連スポット


・魏石鬼窟:八面大王が棲んだとされる岩屋(長野県安曇野市穂高有明宮城)
・合戦沢:八面大王が田村麻呂と戦った場所(長野県安曇野市穂高牧)
・耳塚:八面大王の耳の埋葬地(長野県安曇野市穂高耳塚)
・立足:八面大王の足の埋葬地(現存せず)
・筑摩神社:八面大王の首の埋葬地(長野県松本市筑摩2-6)
・大王神社:八面大王の胴体の埋葬地(長野県安曇野市豊科南穂高、大王わさび農場内)
・有明山神社:田村麻呂の宝剣が奉納されたと伝わる(長野県安曇野市穂高有明宮城7271)
・八面大王足湯:八面大王伝説をモチーフにした無料の足湯(長野県安曇野市穂高有明7750-1)