珍奇ノート:八面大王の伝説



八面大王(信濃の民話)


人武天皇※の御代、有明山の山麓を宮城(我が城の意)と名付けて支配した鬼が棲んでいた。その鬼は八面大王(はちめんだいおう)と言い、人里から作物や婦女を奪うなどの悪行をするので、人々は困り果てていた。この話を蝦夷征討に向かう途中の坂上田村麿が聞きつけて退治することになった。

だが、八面大王は雲や雨風を呼ぶことのできる魔力を持っていたので簡単に近づくことはできず、矢で攻撃しても魔力で防がれるので、田村麿は一旦退いて観音に戦勝祈願をすることにした。すると、夢に観音が現れて「33節ある山鳥の尾で弓矢を作り、満願の夜に射て」というお告げがあったので、田村麿は信濃一国に布令を出したが、そのような山鳥はなかなか見つからなかった。

この3年前の年末のこと、弥助という者が穂高の暮市に年越しの買い物に出かけた。雪の峠を越えて松林に差し掛かった時、大きな山鳥が罠に掛かって鳴いていた。弥助は山鳥を罠から外してやると、代わりに買い物に使うはずだった500文を代わりに置いてきた。手ぶらで家に帰った弥助は母のオサクに理由を話すと、オサクは咎めること無く弥助を褒めた。

その年の大晦日の夜、弥助の家の戸を叩く音が聞こえるので、戸を開けるとそこに17,8歳ほどの娘が立っていた。話を聞くと道に迷って帰れないと言うので、弥助は家に迎えて火を起こして娘の濡れた体を温めてやった。その年は大雪だったので、娘は弥助とオサクを手伝って正月を迎えた。娘は美しい上によく働くので、弥助もオサクもすっかり気に入って、やがて弥助は娘を妻に迎えた。そして、しばらくの間は3人で仲良く暮らしていたという。

それから3年が経ち、田村麿が山鳥の布令を出した翌日、弥助の妻は書き置きを残して急に出ていった。弥助がそれを読むと「三年間楽しい日々でした。山鳥の尾を鬼退治に使って下さい。これでやっと恩返しができます」と書いてあった。

そこで弥助は尾を使って丹念に矢を作り、その矢を田村麿に献上した。これにより、ここは後に「矢村」と呼ばれるようになった。田村麿は弓矢の勢いを得て八面大王を追い詰めることができ、鬼どもを山中に追い上げていった。しかし、田村麿は魔力を使う大王に苦戦することには変わりなく、疲弊したところで泉で喉を潤すと、力が湧き出して八面大王を沢に追い込むことができた。田村麿が喉を潤した泉は「力水」という沢にあったという。

そして、満願の夜になったので、八面大王が月に背を向けたところで弥助の矢を射ると、大王の魔力が薄まって矢の勢いを止めることができす、そのまま大王の胸に刺さった。こうして鬼どもは田村麿に退治されることになった。後にこの地は「合戦沢」と名付けられ、そこにあった合戦小屋は山登りの基地として使われるようになったという。

この後、大王の胸から流れ出た血は安曇野の空を赤く染め、雨となって降り注ぐと、それを浴びた人々は病に伏し、万病が蔓延ったという。そこで田村麿は寺を作り、観音像を安置して病の平癒を祈った。それが満願寺である。田村麿がそこに籠って祈願すると、7日の満願の夜に有明山の上に観音が脚光をさしながら現れて「この近くに温泉が湧くので、その温泉に浸かって病気を治すが良い」と告げた。これは中房温泉で、この温泉に浸かることで人々は病を治したという。

八面大王を倒した田村麿は、大王が魔力で蘇るのを恐れて、体を斬り刻んで離れた場所に埋めた。耳を埋めた所は「耳塚」、足を埋めた所は「立足」、首を埋めた所は「筑八幡宮(松本筑摩神社)」、胴を埋めた所は「御法田わさび畑(大王農場)」である。また、大王の家来の常念坊が、大王が討たれた時に空高く舞い上がり、一つの山に庵を結んで大王を弔う念仏を上げた。そのため「常念岳」と呼ばれるようになった。

こうして里には平和が戻り、人々の病も治った。弥助も長者となったが、妻を失ったことを大層悲しんで、日々空を眺めながら嫁の帰りを待って過ごしたという。

※筑摩神社の由緒によれば桓武天皇とされる

魏石鬼の窟(安曇野市の民話)


昔、有明山の魏石鬼の窟(ぎしきのいわや)に八面大王(はちめんだいおう)と名乗る鬼が棲んでおり、人里に降りては魔力や暴力を使って人々を襲っていた。

ある年の暮れ、町に買い物に出かけた村人の弥助が道中で罠に掛かった山鳥を見つけたので、山鳥を解放してやり、その代わりに銭を置いていった。そこで買い物に使うはずだった銭を失ったので、帰宅して母に正直に理由を話すと、母は弥助の善行を褒めて咎めることはしなかった。それから3日後の大晦日に道に迷ったという美しい娘が弥助の家戸を叩いたので、家に上げて介抱してやった。これにより、弥助は娘と親しくなり、やがて結婚することになった。

その頃、都から蝦夷征伐にやって来た坂上田村麻呂という将軍が、旅の途中で八面大王の話を聞き、退治してやろうと大勢の家来を引き連れて魏石鬼の窟に向かったが、大王は魔力で矢を防ぐので、どうしても倒すことができなかった。そこで田村麻呂は観音堂にて戦勝祈願すると、観音が夢枕に立って「33節の山鳥の尾で矢を作れば、八面大王の魔力に防がれることは無いだろう」というお告げを下した。目覚めた田村麻呂はすぐに「33節の山鳥の尾を探し出すように」と信濃の国中に命じたが、なかなか見つけたという報告が上がらなかった。

弥助も山鳥の尾を探し回っており、もし見つけられたのなら褒美を貰って妻に着物でも買ってやろうと考えていたが、全く見つけられなかったので、落胆して妻に愚痴をこぼした。すると、妻は姿を消し、代わりに手紙を残した。その手紙には「3年間楽しい日々でした。私の尾を八面大王の退治に使って下さい。これでやっと恩返しができます」と書いてあった。この娘は以前に弥助が助けた山鳥だったのである。

手紙を読んだ弥助は妻の残した尾を使って丹念に矢を作り、これを田村麻呂に差し出した。田村麻呂は再び八面大王に挑み、そこで弥助の矢を射ると、魔力に防がれること無く八面大王を射抜くことができ、これを以って八面大王は退治された。この後、弥助は褒美を貰って長者になったのだが、妻を失ったことを悲しみ、いつまでも妻の帰りを待って暮らしたという。

一方、八面大王の死体は そのまま葬れば蘇るということで、五体を切り離して別々の場所に埋められることになった。耳を埋めた所は「耳塚」、足を埋めた所は「立足」、首を埋めた所は「松本筑摩神社」、胴を埋めた所は「御法田の大王農場」といわれている。また、田村麻呂が八面大王と戦った場所は「合戦沢」と名付けられ、八面大王の家来の常念坊が大王の冥福を祈るために念仏を唱えた山を「常念岳」という。

魏石岩窟(安曇野市の民話)


有明の宮城にある魏石岩窟には、八面大王という大鬼が手下と共に棲んでいた。八面大王は神出鬼没の魔力を持ち、雲を起こしたり、霧を降らせたり、天地を飛行することができたという。八面大王とその手下は、村里に降りては盗みや乱暴を働いていたので、朝廷は坂上田村麻呂に八面大王の討伐を命じた。

延暦10年(791年)、坂上田村麻呂は信濃国に入ると、筑摩八幡宮に鬼退治の祈願をした。すると、夢枕に筑摩八幡の神が立ち「甲子の年、甲子の月の子の刻に生まれた男児が山鳥の33節の尾羽で矢を作る。この矢を使って鬼を射てば、魔力で防がれることも無いだろう」と神託を下した。

その時、矢村には矢助という者が居り、この矢助は筑摩八幡の神が言った条件に当てはまる者であった。また、矢助の妻が33節の山鳥の尾を持って来たので、これで作った矢を田村麻呂に献上した。この後、田村麻呂は矢助の矢を以って八面大王を討ち取ったという。

矢村の弥助(安曇野市の民話)


有明山の麓に棲む弥左衛門には弥助という息子がおり、幼い頃に八面大王という鬼にさらわれた。成長した弥助は、ある時に大きな山鳥を助けた。それから3日後、弥助は美しい娘を娶ることになった。

そのうち、また八面大王が暴れ始めたので、大王を討伐しにやって来た坂上田村麻呂が観音堂で祈ったところ、特定の山鳥の尾を矢にするようにとのお告げがあった。これを聞いた弥助は山鳥を探したが見つけられず、落ち込んでいると嫁が山鳥の尾を持ってきた。実は嫁は山鳥の化身であり、尾を渡した後に消息を断った。この後、田村麻呂は山鳥の尾で作った矢を使って八面大王を討ち取ったという。

筑摩神社の由緒


桓武天皇の御代に八面大王という鬼賊が信濃国安曇郡の有明村に棲んでいた。その身の丈は10余尺(3m以上)で、その顔は見るも恐ろしいほどの鬼面であり、近隣の村人に危害を与えていたという。

そこで桓武天皇は、坂上田村麿に鬼賊征伐の勅命を下した。田村麿は石清水八幡宮に21日間参籠して祈願すると「信濃国の国府の里に八幡宮を祀れば賊平定は成就するだろう」との霊験があったので、田村麿は石清水八幡宮の分霊を信濃国に遷して八幡宮を創建した。これが筑摩神社の起因である。

飯塚(鬼塚)の由来


桓武天皇の御代、安曇野の中房山の北、三社の岩屋に八面大王または魏石鬼という賊が住んでいて、人民を長い間苦しめた。このことは帝に達し、田村麻呂将軍および雨宮殿、吉田殿に鬼賊退治の宣旨が下された。

将軍らは一団となって信濃に下校し、廿歴年6月11日朝、神を奉じ中房山に攻め入れば、数は敵対できず、朝日に向かう雪氷の消えるが如く、その日の午頃、魏石鬼を始め鬼賊を悉く討ち滅ぼした。長たる者の首136を持って凱旋し、この地に塚を築いて葬ったときには飯塚と呼び、後に鬼塚と呼ばれるようになった。

立石の伝説(大町市の民話)


昔、鹿島川の上流に鬼が棲んでおり、その名を八面大王と言った。大王は子分を連れて、村を襲って作物を奪い取るので、村人たちは恐れて暮らしていた。その時、村に田村将軍が通りかかったので、村人は八面大王のことを相談して退治の約束を取り付けた。

田村将軍は源汲の上手にある鍛冶屋に剣を造らせていると、これを知った大王は住処から石を鍛冶屋に投げつけた。この石は赤茶色の柱状節理の矢沢石で「立石」と呼ばれたという。

八面大王の伝説


大和朝廷が東北平定に向かっていた頃、信濃国を足がかりに侵攻を進めていた。そのとき、地元の人々に多くの貢物や無理難題を押し付けて苦しめていたので、安曇野の里に住んでいた八面大王(やめのおおきみ)は、この状況を見るに見かねて立ち上がり、坂上田村麻呂の軍勢と戦うことにした。

八面大王は田村麻呂の軍に一歩も引けを取ること無く戦ったが、最後に山鳥の尾で作られた矢で射られて倒れてしまった。この後、田村麻呂は八面大王の怨霊を恐れて、五体を切り離して別々の場所に埋めたという。

『信府統記』第十七「筑摩・安曇両郡旧俗伝」


我が信濃国の中で、昔から今日に至るまで その事跡を見聞きしたことは、この「信府統記」の「郡境諸城の記」などに載せたが、大昔の歴史は そのいわれがハッキリしないこともあり、きちんと書くことは難しい。よって、しばし筆を取るのと止めたが、ここにまた筑摩(つかま)・安曇(あずみ)の両郡において、昔から伝わる風俗や習慣の記録は少なくない。それらの話の詳細は分からないことも多いが、これも遠く過ぎ去った時代のことであるので、現在を知る一端として捨て置けない。よって、別に集めて一巻とした次第である。信じて昔を好む意味に近いだろう。

一つ、大昔、郡の名も定まらず、ましてら郷村も開けて無かった頃、この辺りでは山中にだけ人が住み、この地を有明の里と言った。有明山という大きな山の麓だったから この名が付いた。有明山は今(江戸中期)の松川組である。有明山の名を「戸放力嶽」ともいう。詳しく言えば、大昔に日の神(アマテラス)が岩戸に籠った時、天地が真っ暗闇になってしまったので、手力雄命(タヂカラオ)が岩戸を取り上げて投げたところ、この岩戸が有明の場所に落ちた。それから天下が明るくなったので、この山を有明山とも、戸放力嶽とも言うのである。また、鳥放力嶽とも言う。

(中略)

中房山には鬼神が居り、里に降りて人々を悩ましたので、諸々の神が力を合わせて その鬼は滅ぼした。鬼神は魔動王といった。今の島立の鬼場という所は、この鬼神のたむろしていた場所である。征矢野の野々宮で古廐原で首の調べのあった場所に鬼賊の首領の魔動王を始め、その首が136、そのほか邪賊は数え切れないほどだった。討ち取った首は塚に埋められ、これを耳塚という。この136の首だけは、今の筑摩の社壇より未申の方へ36間(約56m)離れた場所に塚を築いた。

その塚の形は飯を盛った形に似ているので、今は飯塚と呼ばれている。この時に人々は旌旗を神体として宮殿を作った。これが筑摩の神社である。その旗を納めた場所に竹が生えている。これを野竹といって、昔は弓にもなったと言い伝えられている。千早振神の居垣に弓を張って、向かいの矢先に悪魔がいたのはこの場所といい、そのときは竹魔と言った。これは筑摩八幡宮の社人が伝えてきたことだ。

『仁科濫觴記』


神護景雲(767~770年)の末から宝暦年間(770~781年)にかけて、コソ泥が出没して民家の壁を壊したり、倉庫に忍び入って雑物財宝をかすめ盗っていた。そこで河南に小城を築き、鑑を置いた。この城には美濃殿の次男で和泉守の弟である仁科明清に田村玄馬を差し添え、その他に仕士が十数名付き従った。この城は「宝祚谷(ほそ[が]や)の城」と名付けられた(宝祚谷殿は森城を築いて三代にわたって世を治め、めでたき名が成ったので明清も宝祚谷殿と名乗ることにした)。

宝亀8年(777年)秋8月、和泉守殿は河南の地頭を宝祚谷の城内に集め、盗賊の巣窟を探し出すように命じた。その方法は、夜中に高い山の峰に登って焚火をしているところを見つけるというもので、夜が明けてからその場所を確認すれば巣窟が顕になる、というものだった。地頭はその旨を指示し、密かに熟練した者たちを峰々へと登らせた。

ある夜、有明山の麓から火の明かりが一つ出ているのを見つけたので、これに見当を付けておき、翌朝に地頭らがそれを見たものに案内させて、その場所に向かった。すると、土に穴を掘り、石で補強し、上部は細長い石を並べて芝で覆い、雨漏りしないようにする隠れ穴ががあった。盗賊らはその夜は帰らないと見え、結局のところ焚火の跡を見つけるに留まった。

地頭らの報告により、明清殿からその旨が和泉守殿に伝えられた。衆臣らは会議して、これは鼠賊の隠れ住む巣窟に間違いないとして、これを「鼠穴(ねずみあな)」と呼ぶことにした(コソ泥を「鼠」と呼んでおり、鼠賊はスリと読む)。村の入口の辻などに小屋を掛け、夜番が見回ってぬかりなく用心し、村長は村の末々の者にまで注意を促した。しかし、賊は隙を狙って動いているのか、このように注意しても盗難の訴えが止むことはなかった。

それから日が経ち、中分沢の山奥には盗賊が隠れ住むようになり、後々に8人の首領が出てきて人々をひどく悩ませた。賊は山から出る時に顔を色とりどりに塗って「八面鬼士大王」と名乗り、手下を引き連れて強盗を働いていた。そこで和泉守殿は家臣の等々力玄馬(とどりきげんば、田村守宮の改名)を使者として都に遣わし、賊の悪行を訴えでたところ、将軍家から鬼賊追討の宣旨を賜り、玄馬亮(げんばのすけ)は都から帰郷した。

延暦8年(789年)2月上旬、鬼賊追討の宣旨が下ったので、筑摩郡と安曇郡の地頭を集めて、和泉守殿・美濃殿・宝祚谷殿が止歩可見庁へとやって来た。四臣ならびに玄馬亮、その他の衆臣、地頭の面々が協議して八鬼追討の任務分掌を決定した。

南の方を「追手(おって)」と定め、大将の田村守宮(等々力玄馬亮の子)に壮士12名を付け、健男5名を1組、5組を一手とした。そこにさらに地頭2名、人夫10名を付けた。追手は5手、合計185名の他、さらに増勢があった。追手は宝祚谷城の北にある保高神社の原に終結後、空水川の北から繰り上がる。吝(りん)を含んで声音を立てぬようにする。木樵の通る道を登って「中分沢」の山奥へと越えて、山や谷の随所を狩ることに決めた(この場所は、この時の行動に因んで「貝吝場」と名付けた云々)。

北の方を「搦手(からめて)」と定め、大将には高根出雲を任じた。壮士5名、健男5名を一組とし、5組を一手として5手を編成し、地頭と浮人10名を付けた。そこにさらに増勢した。軍勢を集め、川会神社の下に高瀬川を渡り、神戸の原で太鼓を打ち軍勢を揃える。その後、手分けして有明山、中分沢に入り、北方の山の峰に登り、追手の軍勢が山から下る時を見計らって合流することにした。

大力で屈強の若者200名余りは、中分沢山の南の蔓尾山の林中に落とし穴を多数掘って、その上に柴草を掛けて穴を隠し、捕縄を用意して隠れ持ち、賊を生け捕りにすることにした(これによって蔓尾山に「待居」という地名が付いた)。これも大将には四臣のうちの一人をあて、地頭やその他、人夫数十名を付けることに決めた。

以上のように協議で決したが、さらに念入りに協議を重ねた。

賊追討の時期は当月下旬とし、賊を狩ることを公表すれば賊が逃げると考えて「山野に猪や鹿が多く、作物を荒らすので猪鹿狩りを行う」と申し触れて、人員を集めることになった。それで地頭の面々は村に帰っていき、村長、健男らを集めて、近日中に猪鹿狩りがあるということで、その人員を手配し、待機したのである。

道基が亡くなった後、道円法師が祈祷の法主を務めた。そこで「道円、道光、常光の三僧を御所に呼び、鬼賊降伏の祈祷をさせよ」との達しがあったので、三僧はその命に従って荒神堂にて祈祷の準備を進めた。そのときに居丈の剣を造らせて中央に立て、三重に注連縄を張り、諸明王の尊像、四天王や薬師の十二神将などを安置した。三僧とその弟子は、17日間 苦心して祈祷を修した。その効があったのか、鬼賊らはたちまち滅亡した。この剣は、祭壇を解いた後に森城の鬼門除けとして戸隠権現に奉納することにし、まずは城の北東(鬼門の方角)の高根山の山頂に納められた。この時、この山は「権現山」と名付けられ、剣を収めた場所は「頂が峰」と名付けられた。

延暦8年(789年)2月下旬、予て取り決めた通り、前の晩から「高かがり山」と南方の「峯火場」で合図の火を焚かせた。これを「明日に軍勢を揃える合図が来た」と捉えた地頭たちは健男を集めて鬼賊追討の準備を急いだ。等々力の田村玄馬亮は鑑の庁舎の留守居とし、息子の田村守宮が大将を務めた。

田村守宮が壮士や役職の者を引き連れて、貝場の陣所で法螺貝を吹かせると、地頭・健男たちの集団が列を整えてやってきた。大将は団扇を手に床机に腰掛けて、壮士は采配を持って大将の両側に並んだ。大将が地頭たちに会釈すると、地頭たちは各々承知して、それぞれの組の詰所に帰った。健男たちはそれぞれが竹槍、斧、鉞などの柄物を用意し、人夫は兵糧とその他の用具を背負い、案内人を先頭に山奥を目指して登り始めた。

河北の人員は、未明に止歩可見庁矢原庄に集合すると、和泉守殿がお出ましになり、四臣も陣装束に身を包んで庭に並んだ。和泉守殿が会釈すると、高根出雲がそれを謹んで承り、地頭の面々を集めて諸事を伝えた。地頭らは承知して、それぞれの組の健男と人夫らが各々準備して、出雲を先頭に神戸の原へと急いだ。高根隠岐も予てから地頭らとの取り決め通り、健男やその他の人員を引き連れ、穴掘り道具を人夫に持たせ、待尾を目指して急いだ。また、高根伊勢は御所の留守居を担当し、御所の館、若者の館、中の館を、臣下を引き連れて見回った。

鬼賊の巣窟に攻め入るのは、翌朝の明け六つ(日の出頃)と決め、追手は午の刻下(正午過ぎ頃)から山を登り始めた。搦手は申の刻下(夕方頃)から進軍を開始した。宵の薄明かりがあるとはいえ、山中には夥しい残雪があったので、地理に詳しい山賊を先頭に岩や木の枝を伝って登っていた。そのうちに月が出てきて空は煌々と明るくなり、この上なくハッキリと見えるようになったので、難なく賊の巣窟の奥峰へと登ることができた。そこでしばらく休息し、兵糧を使って夜が明けるのを待った。

待尾では夜半までに落とし穴の準備ができたので、人夫たちを宝祚野原へと引き上げさせ、地頭と健男らは林中に隠れて今か今かと決行の時を待った。高根隠岐は中分沢の北方、鼠穴の原に陣取って遠見して警戒した。これは賊が中分沢から北に逃げないようにするための手立てであった。

星の光が消え、東の空に赤みが差し、人の顔がハッキリ見えてくる頃、大将の田村守宮はここぞと法螺貝を吹かせ、鬨の声を上げさせた。そこに搦手も太鼓を打って鬨の声を合わせた。

鬼賊らは鬨の声に驚いて、目をこすりながら巣窟から出てみれば、辺りの山の峰々に人影が無いところは無く、男たちが巣窟を目指して下ってくる。鬼賊らはこれを見て肝を潰して「鹿狩りをすると聞いていたが、我らを狩ろうというのか」と狼狽えながら逃げ出した。8人の賊の首領は逃げられないと覚悟して、周囲を睨んで、近寄れば斬りつけようと身構えた。

そこに壮士を引き連れた田村守宮が進み出て、大声で「鬼どもよ、然と聞くがよい、お前たちが盗みを働き民家の倉庫を壊して財宝を奪ったことは都にも聞こえてくる。このたび勅命の宣旨によってお前たちを成敗することになった。しかし、その罪は重いとはいえ、お前たちは未だに人命を害したことはない。速やかに降参して戒めを受けるのならば、命だけは助けてやろう。だが、もしも手向かうのならば、手下の賊に至るまで一人も命も助けはしない。その返答はいかに」と述べた。

8人の首領は互いに顔を見合わせると、中でも老齢の首領が前に進み出て、太刀を投げ出して 考えた後、両手を地に着けて「貴君のお言葉は全て承知しました。我らの命はともかく、手下の者どもはお助け下さい」と言った。首領全員が腕を背中に回して縄を掛けられることを覚悟すると、壮士らは神妙に思いながら近づいて、首領らに縄を掛けた。また、残りの手下5,6人にも健男が近づき、縄を掛けて引き立てた。

8人の首領らは健男に縄を引かれ、地頭らが警護しながら待尾を目指して山を下った。また、岩や樹々の間に隠れていた手下の賊10人あまりも探し出して捕えた。そこで合図の法螺貝を吹かせ、搦手にも太鼓を打たせると、さらに岩間や木陰を探りながら麓を目指して山を下っていった。

追手の大将の田村守宮が壮士らと共に待っていたところに、搦手の大将の高根出雲が壮士らを引き連れて下ってきた。合流して縄を掛けた賊を先頭に、守宮と出雲が殿(しんがり)となって下っていった。高根隠岐の手によって追い捕えたものと待尾の落とし穴で生け捕りにしたもの40人余り、合わせて約60人の手下の賊と8人の首領を先頭に引き出し、空水川の北の繰尾原にて勝鬨の声を三度上げた。そして、すぐに使者を仁科の御所と宝祚谷の城へ遣わせて鬼賊捕縛を報告した。

それを聞いた明清殿は玄馬亮に諸事を申し渡して、馬を出して帰城した。明清殿は早速使者を出して、鬼賊降伏の旨を都へと申達した。等々力玄馬亮は地頭の面々を集め、8人の首領を1人ずつ預け、人夫に申し付けて首領らを厳重に見張らせた。また、玄馬亮は「手下の賊はそのまま野原に戒め置き、農夫に交代で見張りをさせよ」と申し付けた後、健男らを呼び寄せ二日間の苦労に感謝し、罪人は交代要因に任せて帰宅するようにと申し渡した。

田村守宮と壮士3人を残し、玄馬亮は出雲、隠岐、壮士らと共に明清殿の館を目指して帰った。そこで夜通し酒宴が催され、酒宴には明清殿の出座もあったので、夜が更けるまで話に花を咲かせた。鶏が鳴く頃になった明清殿が寝殿に入ったので、皆も臥所へと入って就寝した。

延暦8年(789年)2月25日、細萱(宝祚谷)の鑑舎において御所から呼び寄せた高根主膳、高根伊勢の2名と玄馬亮、高根出雲、高根隠岐、田村守宮らが明清殿の御前において協議を行い、賊に対する刑罰を決定した。協議の結果『8人の首領のうち、頭領については死刑、その他の者は耳を削ぎ、国境まで連行して追放すべし』という旨の触れを出した。

すると、そこに嶌立の地頭たちがやって来て「賊による被害に遭った者どもを召し連れて、お願いすべきことあって参りました」と申し出た。玄馬亮が立ち上がって「願いとはいかなるものか」と尋ねたところ、地頭らは一同に「この者どもは賊の被害に遭って苦しんだ者ばかりです。8人の首領をお渡しくださるようお願いします」と言った。玄馬亮が「大勢の申し出ではあるが、すでに賊への刑罰は申し渡している。賊の巣窟において守宮殿が申された言葉を地頭の面々も聞いたであろう。君子に二言はない。しかし、まだ細かい決め事があるゆえ、地頭を一人残し、他の者は退出せよ」と申し付けたので、言われた通りに地頭らは畏まって門外に退去した。

玄馬亮は鑑舎の奥に入ると四臣と相談し、残った嶌立の地頭を奥へと招き入れた。主膳が申し渡すには「刑罰については言い渡した以上、これを変更するのは難しい。しかしながら、罪を軽くすることに支障はない。よって頭領の死刑は免じ、首領全員を同じ刑罰で処せ。手下の賊は片耳を削ぎ、首領らは両耳を削ぐようにせよ」とし、さらに「手下の賊は嶌立の地頭が一人で引率し、健男らに引かせて嶌立へと連行して追放せよ。首領らは地頭二人が引率し、恨みがある者に連行させよ。嶌立へと連行して追放すれば、刑罰の執行は完了する。その後は地頭ら三人の思うようにせよ。本日中に処罰するよう急げ」と申し付けた。

鬼賊への刑の執行があるとして、諸々の役人は捕縛して置し原に集合した。巳の刻(午前10時頃)になる頃、田村守宮が壮士を連れてやって来て床机に腰掛け、壮士がその両脇に並んだ。守宮が8人の首領と手下の賊らに「首領らは手下を集めて巣窟を作り、民家の倉庫を破壊して財宝を掠め盗った。その罪は甚だ重いものである。とはいえ、国司より憐れみを賜り、耳削ぎの刑に処して国外に追放を申し付けるものである」と申し渡した。そして、検使として壮士2名を残して鑑舎へと帰っていった(耳削ぎの刑は、青竹を割って耳を挟み、竹を残して外側を削ぎ取る。削ぎ口には血止めを付けて止血する。というものである)。

下役人が準備をして耳削ぎすると、それを見た恨みのある人々が「我が削ぐ」と騒ぎ立てた。70人あまりの鼠賊と8人の首領に至るまでの耳削ぎを終えると、戒めの縄はそのまま健男らに引立てさせた。これを地頭らが警護して「長尾上野の原」を過ぎ、放場を目指し連行した。検使は刑場に留まって、刑場を始末する人夫に「削ぎ捨てた耳や血に染まった砂や石は一つの塚に築き、見苦しい者があれば焼き捨てよ」と申し付け、鑑舎へと帰っていった。その後、通る人はここを「耳塚」と呼び、習わしを伝えた。

鼠賊らは島へと連行し、戒めてから縄を解いて追放した。二人の地頭に引率されて連行された8人の首領は、恨みのある人々が一緒に縄を引いていることもあり、ゆっくり歩いたことで、手下の賊の行列から2,30町遅れていた。2名の地頭はそれから道を変え、西の山際へと首領らを連行した。そこで、大勢で口々に「これまでは表向きの処罰だ。これからは我らの恨みを晴らす。天罰と思い知るがいい」と言って、掘っておいた大きな穴に首領らを突き落とし、その上に石を積んで殺してしまった。これにより、恨みを持つ人々は清々しい心持ちになった。この時から、この山を「八鬼山」と言い習わすようになった。

鼠賊で耳を削がれて追い払われた者の中には地元出身の者もおり、日が経つと、密かに地元へと帰って親兄弟あるいは知人を頼って隠れ住む者もいた。この様子を国司が耳にして、延暦24年(805年)の春、美濃殿の100歳の祝賀として農家にその年の年貢を免除し、また隠れ住んでいた元鼠賊の輩を赦免した。赦された輩は八鬼山の原と3年分の扶持米を賜り、田畑の開発を仰せつかるという、ありがたき仁政であった(この者らは耳に傷があったことで「軽耳八鬼山(けみみやきやま)の鼠賊」と呼ばれたという。他国で「道路奪(どろぼう)」というものを「けみみやき山」というのは筑摩郡と安曇郡に限られている)。

大姥と金太郎の伝説


昔、信州八坂の一番高い山には大姥(おおうば)が棲んでいた。大姥は有明山の八面大王と恋仲になり、やがて大王の子を産んだ。それが金太郎である。金太郎は岩山で熊と相撲を取りながら育ったので、幼い頃から怪力を持っていた。

金太郎が6歳の時、源氏の大将の頼光が天皇の勅命を受けて諸国の鬼退治をしていた時期だった。ある時、頼光は鬼の力が強くて退治が難しくなったということで大姥を訪ねた。そこで大姥は「それなら この子を連れて行け」と金太郎を差し出すと、頼光は家来に迎えて鬼退治に連れていき、金太郎の力を借りて鬼を退治することができたので、頼光は金太郎を坂田金時と名乗らせて頼光四天王に加えたという。

この山は大姥山というが、金太郎(坂田金時)が育ったので金時山とも呼ばれ、金太郎が熊と戯れて育ったということで金熊川という川が通っている。なお、大姥山は古来より神聖な山とされており、大姥神社奥社への女人の立ち入りは禁じられているという。

紅葉鬼人


昔、八坂村の一番高い山には紅葉鬼人という赤い顔の女が棲んでいた。紅葉鬼人は有明山に棲む八面大王と恋仲になり、やがて大王の子を宿した。そこで産まれたのが金太郎である。

金太郎は山麓の池で産湯に浸かった時から怪力で、北の戸隠山の悪鬼を源頼光と共に退治した。それ以来「坂田の金時」と名乗って頼光四天王に加えられたという。

もみじ鬼人(明科町の民話)


もみじ鬼人は八面大王と夫婦の鬼であったが仲が悪かった。坂上田村麻呂は八面大王を退治したが、もみじ鬼人は退治するのに大変苦労した。田村麻呂は弓矢を使ってもみじ鬼人と戦ったが、3本の矢を射ると3本目の矢が命中したので、泣きながら帰っていったという。