甲斐の黒駒 ― 空を翔ける聖徳太子の愛馬 ―
甲斐の黒駒(かいのくろこま)とは、空を飛んだとされる聖徳太子の愛馬のこと。
伝説によれば、空を飛んで大和国から富士山を経て信濃国まで行き、3日で帰ってきたとされている。
基本情報
概要
甲斐の黒駒は聖徳太子が愛馬とした馬で、空を翔けることができたという伝説がある。この説話は『扶桑略記』や『聖徳太子伝暦』に記されており、以下のような内容となっている。
推古天皇6年(598年)4月、聖徳太子は良馬を求めて諸国から馬を献上させた。太子は甲斐国から献上された数百頭の黒駒の中から四脚が白いものを神馬であると見抜き、これを舎人の調使麿に飼育させた。
同年9月、太子が試乗すると黒駒は天高く飛び上がり、太子と調使麿を乗せて東に向かい、富士山を超えて信濃国に到ると、3日で帰還したという。
同年9月、太子が試乗すると黒駒は天高く飛び上がり、太子と調使麿を乗せて東に向かい、富士山を超えて信濃国に到ると、3日で帰還したという。
なお、『聖徳太子伝暦』では黒駒が空を翔ける様子を、調使麿は「黒駒は雲を踏んで飛んでいき、その様子は雷電のようであった」と表現し、聖徳太子は「まるで陸地のように空を踏んで走る」と表現したという。
また、黒駒の「駒」は「小さな馬、若い元気な馬」を指す言葉とされているが、一説に地を駆けるものを「馬」と言い、空を翔けるものを「駒」というとも言われているらしい。
ちなみに聖徳太子が建てたと伝わる橘寺(奈良県高市郡明日香村)には黒駒像がある。
瓢箪から駒の由来
「瓢箪から駒(瓢箪から駒が出る)」という「意外な所から意外な物が出ること」を意味する故事ことわざがあるが、これは一説に山梨県に伝わる甲斐の黒駒の伝説が由来であると言われており、その内容は以下のようになっている。
飛鳥時代、甲斐国のとある農家で産まれた子馬が、乳を飲まずに瓢(ひさご)の葉を食べて育った。その子馬は大きく育つとやがて瓢箪を咥えて帰ってきた。この馬は後に聖徳太子に愛馬となり、瓢箪は推古天皇に献上されたという。
馬桶岩の伝説
愛知県の三河地方の伝説には聖徳太子と異なる黒駒の伝説があり、以下のような内容になっている。
昔、三河の御大尽という者が立派な黒駒を飼っており、毎日のように好物の酒を与えていた。ある時、隣国の殿様が黒駒を手に入れようと、宝物を持って御大尽と交渉したが、御大尽はどんな宝であっても了承しなかった。その時、黒駒が突然いきり立って、屋敷の外に飛び出して行った。
御大尽は慌てて使用人を集めて黒駒を追っていくと、やがて鞍掛山の麓の洞窟に到った。そこで、御大尽は洞窟の前に酒樽を置いて黒駒をおびき出し、黒駒が酒を飲んでいるところで縄をかけて捕らえようとしたが、黒駒は恐ろしい力で縄を引きちぎり、再び姿をくらませてしまった。
その翌日、御大尽は黒駒の蹄の音で目覚めると、崖の頂に黒駒が立っていた。その時の黒駒は朝日に照らされて金色に輝いていたという。そこで御大尽が捕らえようと崖に登っていくと、黒駒は一声嘶いた後に崖から空に飛び立ち、やがて龍の姿に変わって竜頭山に向かっていったので、一行は龍神だと思ってひれ伏したという。
この黒駒の立っていた崖の大岩には「黒駒の蹄跡」と「水を飲んだくぼみ跡」がくっきりと残っており、この大岩は後に「馬桶岩」と呼ばれるようになった。この岩のくぼみの水はどんな日照でも枯れなかっったという。
御大尽は慌てて使用人を集めて黒駒を追っていくと、やがて鞍掛山の麓の洞窟に到った。そこで、御大尽は洞窟の前に酒樽を置いて黒駒をおびき出し、黒駒が酒を飲んでいるところで縄をかけて捕らえようとしたが、黒駒は恐ろしい力で縄を引きちぎり、再び姿をくらませてしまった。
その翌日、御大尽は黒駒の蹄の音で目覚めると、崖の頂に黒駒が立っていた。その時の黒駒は朝日に照らされて金色に輝いていたという。そこで御大尽が捕らえようと崖に登っていくと、黒駒は一声嘶いた後に崖から空に飛び立ち、やがて龍の姿に変わって竜頭山に向かっていったので、一行は龍神だと思ってひれ伏したという。
この黒駒の立っていた崖の大岩には「黒駒の蹄跡」と「水を飲んだくぼみ跡」がくっきりと残っており、この大岩は後に「馬桶岩」と呼ばれるようになった。この岩のくぼみの水はどんな日照でも枯れなかっったという。
なお、鞍掛山には今でも伝説の「馬桶岩」が残っており、岩のくぼみには水が湛えられている。今は「くぼみの水を汲み出すと必ず雨が降る」と言われているらしい。
データ
種 別 | 伝説の生物 |
---|---|
資 料 | 『日本書紀』『扶桑略記』『聖徳太子伝暦』など |
年 代 | 飛鳥時代ほか |
備 考 | 空を翔ける伝説の駒の一つ |
スポンサーリンク
スポンサーリンク
コメント
0 件のコメント :
コメントを投稿