金平鹿 / 多娥丸【コンヘイカ / タガマル】
珍奇ノート:金平鹿 ― 鬼ヶ城に棲んでいた伝説の鬼 ―

金平鹿(こんへいか)とは、三重県の鬼ヶ城に棲んでいたとされる伝説の鬼のこと。

多娥丸(たがまる)という海賊だったともいわれ、坂上田村麻呂によって討伐されたと伝えられている。


基本情報


概要


金平鹿は平安時代に鬼ヶ城(三重県熊野市)に棲み着いていたとされる鬼で、一説に鬼と呼ばれて恐れられた多娥丸という海賊だったともいわれている。その伝説はそれぞれによって微妙に異なり、容姿に関しても不明だが、伝説の内容は「鬼ヶ城に棲み、手下を引き連れて付近の郷や海を荒らし回っていたが、やがて坂上田村麻呂に討ち取られた」というものになっている。

金平鹿の伝説によれば、平城天皇の御代に紀伊国の鬼岩窟に棲み着いて付近の郷民を悩ませていたため、坂上田村丸が討伐に向かったところ、それを察知して手下と共に岩窟に閉じ籠った。その時、沖の魔見ヶ島に弓矢を携えた童子が現れて舞を始めたので、田村丸の軍勢も加わって皆で舞い踊っていると、これを怪しんだ金平鹿は戸を少し開けて覗いてみた。そこで、田村丸は戸の隙間を狙って矢を放ち、金平鹿を討ち取った。この後、手下の鬼どもは総て討ち取られ、金平鹿の首は井土村の谷間に埋められたとされる。

多娥丸の伝説によれば、桓武天皇の御代に鬼ヶ城を隠れ家として紀伊国の海を荒らし回っていたため、勅命を受けた坂上田村麻呂が討伐に向かったところ、それを察知して手下と共に鬼ヶ城に閉じ籠った。その時、沖の魔見ヶ島に童子が現れて舞を始めたので、田村麻呂の軍勢も加わって皆で舞い踊っていると、これを怪しんだ多娥丸は戸を少し開けて覗いてみた。そこで、田村丸は戸の隙間を狙って矢を放ち、多娥丸を討ち取った。この後、多娥丸の首は大馬神社に埋められたとされている。

類似する説話

御伽草子『田村の草子』や奥浄瑠璃『田村三代記』には高丸という鬼が登場するが、高丸は田村将軍と戦った際に海上の岩窟に立て籠もったが、将軍方の鈴鹿御前立烏帽子)が天上から星を呼び、妙な音楽を奏でながら舞い踊ったことで、これに興味を示した高丸の娘が岩窟の扉を開けてしまい、そこで討ち取られたとされている。この高丸と多娥丸は名前が似ているが、何か関係はあるのだろうか?

また、青森県の大丈丸の伝説によれば、大丈丸は坂上田村麻呂と戦った際に海上の岩窟に立て籠もったが、田村麻呂は大丈丸を外に誘き出すために、兵士を仕込んだ巨大な張り子人形を作って中で火を灯らせ、これを山車に乗せて走らせ、その周りで笛や太鼓を鳴らして祭りを装ったとされ、大丈丸はこれに興味を示して外に出てしまったとされる。この説話は青森ねぶたの起源になったともいわれるが、これも金平鹿や高丸の説話と似通った内容になっている。

ただし、これらの説話は日本神話にある「天岩戸伝説」にも非常に似通った内容になっている。

データ


種 別 人物、鬼
資 料 熊野市の民話・伝説
年 代 平安時代
備 考 高丸という鬼の伝説と酷似する

金平鹿の関連スポット
・鬼ヶ城:金平鹿(多娥丸)が棲んだとされる海蝕洞(三重県熊野市木本町1835)
・魔見ヶ島:鬼ヶ城から見える童子が天降ったとされる島(三重県熊野市磯崎町)
・大馬神社:多娥丸の首が埋められたと伝わる神社(三重県熊野市井戸町4333)
・鬼ヶ城センター:多娥丸像のオブジェがある(三重県熊野市木本町1835-7)

資料


金平鹿の伝説


平城天皇の頃、紀伊国の鬼岩窟に鬼神が棲み着いて郷民を悩ませていた。鈴鹿山の鬼神を退治した坂上田村丸が紀伊国の鬼の話を聞いて「大君の治める神の国で暴れるとはけしからん」と討伐を決意し、海路を進みニ木島を経由して鬼岩窟に近づいた。

そこで、鬼の大将の金平鹿(こんへいか)は手下を集めて「田村丸は物の数ではないが、観音の加護があると聞く。それで我らの神通力が効かないかもしれない」と言い、食糧を集めて岩窟に籠もり石戸で入口を封じた。これにより、田村丸が攻めあぐねていると、沖の島上に弓矢を携えた童子が現れて田村丸に手招きをした。

田村丸が畏まって童子に近づくと、童子は「私が舞を舞うから、そなたの軍も共に舞おう」と言い、船を並べて舞台を作り、その上で皆で舞い遊んだ。その妙な調べを怪しんだ金平鹿は、石戸を少し開けて外の様子を覗いてみると、田村丸は童子から授かった弓矢を放ち、金平鹿の左眼を射抜いた。

そこで、800もの手下の鬼が飛び出して一斉に襲いかかったが、田村丸の軍勢は1000もの弓矢で迎え撃ったので、鬼どもは尽く倒され、千手観音の化身であった童子は、光を放って飛び去ったという。童子が現れた島は 魔見るか島(まみるかしま)と呼ばれ、鬼ノ本という地名もこの話から名付けられた。

また、金平鹿の首は井土村の谷間に埋められ、祟りをもたらさぬよう「さしもぐさたたりをなさじ」と念じて封じ込めた。そして、田村丸は大泊の奥に観音堂を建立して、守り本尊の千手観音像を納めて清水寺と名付けた。

多娥丸の伝説


桓武天皇の御代、紀伊国の多娥丸(たがまる)という海賊が居り、海を散々荒らし回っていたので鬼と呼ばれて恐れられていた。そこで天皇は征夷大将軍の坂上田村麻呂に多娥丸討伐の勅命を下した。

田村麻呂が紀伊国に入ると、烏帽子山に大馬権現の化身の天女が現れて鬼の隠れ家(鬼ヶ城)の場所を教えたが、そこには岩が厳しく聳え、波も激しかったのでとても立ち入ることができず、多娥丸らも田村麻呂が討伐に来たのを知って隠れ家に食糧を持ち込んで入口を閉ざしてしまった。

田村麻呂が多娥丸と戦うこともできずに困っていると、沖の魔見ヶ島(まみるがしま、まぶりか)に童子が現れて、舞い踊ったり、歌を歌い始めたので、田村麻呂の軍勢も加わって大騒ぎすると、怪しんだ多娥丸が入口の扉を少し開けて外の様子を覗いた。

その時、田村麻呂がすかさず神通の一矢を放ったので、一撃で多娥丸を仕留めることができ、こうして海賊どもは退治された。この後、童子は光を放って北の峰に飛び去ったので、田村麻呂が後を追っていくと、紫電が棚引き芳香に満ちた洞窟が見つかったので、そこに守仏の千手観音を安置したという。

田村麻呂は多娥丸を退治した時に音楽を奏でながら凱旋したことから、その時に渡った橋を「笛吹橋」と言い、討ち取った多娥丸の首は大馬神社に埋められたと伝えられている。