坂上田村丸 / 坂上田村麿【サカノウエノタムラマル / サカノウノエタムラマロ】
珍奇ノート:坂上田村丸 ― 伝説上の坂上田村麻呂 ―

坂上田村丸(さかのうえのたむらまる)とは、平安時代の武将・坂上田村麻呂をモデルにした伝説上の人物のこと。

田村語り」における主人公の一人で、妻は天人の鈴鹿御前(立烏帽子)であるとされる。

また、民間伝承の「坂上田村麻呂伝説」の主人公としても語られている。


基本情報


概要


坂上田村丸は平安前期の武将・坂上田村麻呂をモデルにした伝説上の人物で、「田村語り」と呼ばれる坂上田村丸をめぐる言説(社寺縁起・物語作品など)や、民間伝承として伝えられている「坂上田村麻呂伝説」の主人公になっている。

「田村語り」における物語作品では、田村丸は人間と大蛇の間に生まれた父を持ち、都の将軍であった父が奥州に下向した際に地元の賤女と一夜の契りを結んだことによって生まれたとされる。成長した田村丸はやがて上洛して父との対面を果たし、武芸に長けていたことから各地の化物退治の宣旨を受けるようになり、その中で鈴鹿山の化物退治を受けた際に天人の鈴鹿御前(立烏帽子)と出逢って恋仲となり、各地に現れた強力な鬼たちを退治していくという内容になっている。

「坂上田村麻呂伝説」おける田村丸は田村語りを踏襲した設定になっており、物語作品に登場する 悪路王・高丸・大嶽丸 といった鬼(あるいは蝦夷)を討ったという伝説が東北地方を中心に残っている。その他にも 鬼面・八面大王・金平鹿 といった物語作品に登場しない鬼退治や 大蛇・大蟹・大鰻 といった化物退治などの地方独自の伝説も伝えられており、そういった伝説にまつわる地名やゆかりの場所なども数多く残されている。

田村丸の呼称
田村丸の名称は物語作品によって異なり、御伽草子の『田村の草子』では稲瀬五郎坂上俊宗、『鈴鹿の草子』では稲瀬五郎俊宗、『立烏帽子』では坂上田村五郎利成、奥浄瑠璃『田村三代記』では坂上田村麿利仁とされており、概ね 田村丸・田村殿・田村将軍 などと通称されている。また、地方に民間伝承においては、坂上田村麻呂・坂上田村麿・坂上田村丸・田村将軍 などと称されている。

田村丸の人柄と能力

田村丸は幼くして文武に長け、勇敢な性格であったとされ、化物退治においては計略を立ててから退治するという周到さが見られる。その一方で、妻の鈴鹿御前が亡くなった際に自ら冥土に向かって大暴れするといった荒々しい一面も見られる。

体格については10代で身長は5尺8寸(220.4cm)もあったとされ、巨大な碁盤に人を乗せた状態で投げ飛ばすほどの怪力と射られた矢を箸で掴むほどの器用さを持ち合わせていたとされる(『田村三代記』による)。

愛用した武器は、父から継承した神通の弓矢と、ソハヤノツルギ(あるいは素早丸)という剣であったとされる。また、鈴鹿御前(立烏帽子)から習った神通力を使って火の雨を降らせることもできたという。

なお、田村丸が人並み外れた能力を持っていた理由は「観音の化身」であったためと説明されている。

田村丸の系譜

田村丸の系譜については物語によって違いがある。

御伽草子『田村の草子(鈴鹿の草子)』では、都の将軍と女に化けた大蛇の間に生まれた藤原俊仁(俊仁将軍)が悪路王を討つために陸奥国に向かった際に地元の賤女と一夜の契りを結んだことで田村丸が生まれたとされる。

奥浄瑠璃『田村三代記』では、隕石の破片から生まれた田村利春と女に化けた大蛇の間に生まれた田村利光が奥州の蝦夷平定した帰りに地元の長者に仕えていた水仕の悪玉と一夜の契りを結んだことで田村丸が生まれたとされる。なお、悪玉に関する伝説は東北地方に様々な形で伝えられており、一部の神社では祭神としても祀られている。

なお、田村丸の妻は鈴鹿山に天降った天人の鈴鹿御前立烏帽子)であり、二人の間には小りんという娘がいるとされる。この小りんに関する伝説も岩手県の花巻市や遠野市に伝えられている。

田村丸(田村麻呂)に討伐された鬼・魔物たち

赤頭大嶽丸の仲間で、岩手県の気仙地方を支配していたとされる鬼(金犬丸とも)
阿久良王岡山県の由加山を根城にしていた鬼
悪路王陸奥国周辺を支配していた鬼
・大鰻:現在の愛知県豊川市に居たというウナギ
・大蟹:現在の岩手県岩沼市に大群で現れた大蟹
大多鬼丸大滝根山の周辺一帯を支配していた鬼
大武丸岩手山の周辺一帯を支配していた鬼
大嶽丸鈴鹿山の鬼神
・鬼丸:岩手県大船渡市あたりに伝わる鬼
・大蛇:岩手県、宮城県、埼玉県などに大蛇退治の伝説がある
カナツブテ御伽草子に登場する金礫を使う怪僧
熊井(猪熊)大嶽丸の仲間の岩手県の鬼
・蜘蛛:和歌山県に現れた賊
金平鹿三重県に伝わる鬼で、坂上田村麻呂に討伐されたという(海賊の多娥丸とも)
高丸奥州を達谷窟を根城にしたいた鬼
立烏帽子田村丸の妻だが、地方伝説の一部に討伐したという話がある
長面三兄弟秋田県の房住山を根城とした阿計徒丸・阿計留丸・阿計志丸の三兄弟の鬼
藤原千方の四鬼藤原千方が使役したという四鬼
八面大王長野県に伝わる魔力を使う鬼
・魔王丸:岩手県花巻市の鬼屋敷という所に棲んでいた鬼
・もみじ鬼人:八面大王の妻とされる鬼女

史実における坂上田村麻呂
珍奇ノート:坂上田村丸 ― 伝説上の坂上田村麻呂 ―

史実における坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、平安初期の武将で東北地方の蝦夷征討にあたって無敗を誇った蝦夷の族長・阿弖流為(アテルイ)を屈服させ、その後に征夷大将軍になったことで知られている。ちなみに初代征夷大将軍は大伴弟麻呂であり、この時に田村麻呂は征夷副使で蝦夷征討の際に実質的な指揮を執ったといわれている。

田村麻呂の父は坂上苅田麻呂で、母は畝火浄永の娘(正体は不明)といわれている。なお、田村麻呂の出身氏族である坂上氏は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢人系の渡来氏族の東漢氏と同族で、代々武芸を得意とする家系であったとされる。また、田村麻呂の妻は三善高子という人物であったとされる(清水寺の縁起に登場する)。

田村麻呂の人柄については後世の伝記によって伝えられており、身長は約176cm、胸の暑さは約36cmで、重い時は約120kg、軽い時には約38kgに見えるように機敏に動いたという。また、目は鷹のように鋭く、怒った時の目は睨めば猛獣を殺すほどに恐ろしかったが、笑えば稚児がすぐに懐くように穏やかだったといわれている。

データ


種 別 伝説の人物
資 料 『元亨釈書』『神道集』『御伽草子』ほか
年 代 平安時代
備 考 坂上田村麻呂をモデルにした伝説上の人物

「田村語り」における田村丸(把握しているもののみ)


御伽草子『田村の草子』 ― 室町時代成立 ―



『田村の草子』における田村将軍は、藤原俊仁が悪路王を討つために陸奥国に行った際に初瀬郡田村郷で地元の賤女と一夜の契りを結んだことで誕生し、最初は「臥(ふせり)」と名付けられた。臥は9歳で学問を身に付け、10歳で上洛して父・俊仁と再会し、ここで「田村丸」と名付けられた。やがて田村丸が元服を迎えると「稲瀬五郎坂上俊宗(いなせのごろうさかのうえのとしむね)」と名を改めた。

その後、田村丸は宣旨を受けて大和国の金礫を討伐し、17歳で将軍に任じられた。それから2年後に宣旨を受けて伊勢国の鈴鹿山に棲む大嶽丸の討伐に向かったが難攻を極めた。そこで神仏に祈ると 鈴鹿山の天女を尋ねよ との霊告を得られたので、田村丸は単身で鈴鹿山に向かって鈴鹿御前と出逢った。そこで、田村丸と鈴鹿御前は協力して大嶽丸を討つことになり、鈴鹿御前は以前から大嶽丸に言い寄られていたことを利用して、大嶽丸の力の源である大通連と小通連という2本の剣を奪うことに成功する。そこで田村丸は力を失った大嶽丸を倒して勝利を収めた。この後、田村丸は鈴鹿御前と夫婦になって鈴鹿山で暮らすようになり、やがて聖林という娘を儲けた。

その後、田村丸は宣旨受けて近江国の高丸を討伐することになり、鈴鹿御前と協力してこれを討った。また、後に大嶽丸が残した顕明連という剣によって復活し、陸奥国の霧山を拠点に世を乱そうとしたので、田村丸に再び大嶽丸討伐の宣旨が下された。田村丸は大軍を率いて霧山に向かい、そこで眷属諸共に大嶽丸を討ち取った。

それから、田村丸は鈴鹿御前と仲睦まじく暮らしたが、鈴鹿御前は下界における寿命が尽きたということで やがて亡くなってしまう。これを嘆いた田村丸は悲しみのあまりに自身も気を失って冥土に旅立つことになる。そこで、田村丸は冥土で暴れて倶生神や閻魔大王に鈴鹿御前を返すように頼むと、やがて願いが聞き入れられて冥土で3年を過ごした後に現世に帰ったとされている。

御伽草子『鈴鹿の草子』 ― 室町時代成立 ―



『鈴鹿の草子』における田村将軍は、俊仁将軍が悪路王を討つために陸奥国に行った際に田村という所で地元の賤女と一夜の契りを結んだことで誕生し、最初は「臥丸(ふせりまる)」と名付けられた。臥は7歳の時に父の素性を知り、父に逢おうと上洛して俊仁と再会して「朝日(あさひ)」と名付けられた。また11歳の時に「日龍(にちりゅう)」と名付けられ、13歳で元服を迎えると「稲瀬五郎俊宗(いなせのごろうとしむね)」と名乗らせた(以後、俊宗あるいは田村殿と呼ばれるようになる)。

田村殿は15歳の時に宣旨を受けて大和国の金礫を討伐し、それから月日を経た後に宣旨を受けて伊勢国の立烏帽子を討伐することになった。田村殿は大軍で鈴鹿山を囲んで立烏帽子を探させたが一向に見つからないので、兵を都に帰して単身で鈴鹿山に籠もり、神仏に祈願して立烏帽子の住処を尋ねると、やがて浄瑠璃世界のような立烏帽子の館を見つけることができた。そこで、田村殿が立烏帽子(鈴鹿御前)と対面すると、あまりの美しさに攻める気にならなかったが、宣旨を受けていることもあって争うことにした。しかし、その戦いの中で意気投合して、やがて夫婦のように睦まじい仲になった。

それから月日を経た後に二人の間に娘が生まれたが、田村殿は宣旨を放置していたこともあって都を恋しく思っていたので、それを察した鈴鹿御前は自ら捕まって田村殿に功をもたらそうとして"立烏帽子を捕らえる計略があるので準備すべし"との文を記して渡り鳥に都まで運ばせた。その後、計略の実行時期に田村殿が鈴鹿御前を伴って内裏に向かい、そこで鈴鹿御前が帝に自分が上界の天人であることを明かすと、宣旨は無かったことにされた。

その後、田村殿は宣旨受けて近江国の高丸を討伐することになり、鈴鹿御前と協力してこれを討った。しかし、鈴鹿御前が以前から大嶽という鬼神に狙われていることを明かし、大嶽討伐の宣旨が下るまで敢えて大嶽に捕われて、魂を抜いて弱らせようという計略を提案すると、田村殿は泣く泣く了承した。それから3年後、田村殿に大嶽退治の宣旨が下ると大軍を率いて陸奥国に向かい、龍馬で空を飛んで大嶽の城に入って鈴鹿御前と再会すると、鈴鹿御前は大嶽の一の魂を抜いたので易々倒せるだろうと教えた。この後、大嶽が姿を現したので、田村殿は大通連、小通連、ソハヤノツルギという3本の剣を以って鬼どもを攻め、大嶽を追い詰めたところで鈴鹿御前が顕明連という剣で止めを刺した。

それから、田村殿が大嶽の首を取って凱旋しようとすると、鈴鹿御前が自らの寿命が尽きそうであることを明かしたが、帝への報告を優先すべしということで、二人は泣く泣く別れて都と鈴鹿に帰っていった。その後、鈴鹿御前の死目に田村殿が立ち会うと、鈴鹿御前は自ら持つ三明の剣の内、大通連と小通連を田村殿へ、顕明連を娘に託して果ててしまった。これを嘆いた田村殿は悲しみのあまりに自身も気を失って冥土に旅立つことになる。そこで、田村殿が閻魔大王に鈴鹿御前を返すように頼むと、やがて願いが聞き入れられて冥土で3年を過ごした後に現世に帰っていき、これ以降は鈴鹿御前の代わりに娘が鈴鹿山の主となったとされている。

奥浄瑠璃『田村三代記』 ― 江戸時代成立 ―



『田村三代記』における田村将軍は、田村利光が奥州の蝦夷平定に向かった際に九門屋という長者に仕えていた水仕の悪玉という娘を見初めて一夜の契りを結んだことで誕生し、最初は「千熊丸(せんくままる)」と名付けられた(千熊丸は3年3ヶ月も母の胎内で過ごして産まれたとされる)。千熊丸は7歳の時に学問と武芸を身に付け、この頃に身長は2mを超えていたという。12歳で父に逢おうと上洛して素性を隠して利光に仕えたが、利光は千熊丸のあまりの才器を恐れて、やがて命を狙うようになる。しかし、どんな手を使っても命を取れないので千熊丸に素性を尋ねると、千熊丸が悪玉から授かった鏑矢を見せてきたので、利光は自分の子であることを認め、千熊丸を伴って参内すると、千熊丸は帝から坂上田村麿利仁(さかのうえのたむらまろのとしひと)という名が与えられた。

それから後、金品を奪う毬のようなものが現れたので博士に占わせると"第四天の魔王の娘の立烏帽子が伊勢国の鈴鹿山に天降り、日本を魔国にしようと企んでいる"という結果が出たので、田村麿に立烏帽子討伐の宣旨が下された。そこで田村麿は大軍で鈴鹿山を囲んで立烏帽子を探させたが一向に見つからないので、兵を都に帰して単身で鈴鹿山に籠もり、神仏に祈願して立烏帽子の住処を尋ねると、やがて浄瑠璃世界のような立烏帽子の館を見つけることができた。そこで、田村麿が立烏帽子と対面すると、あまりの美しさに攻める気にならなかったが、宣旨を受けていることもあって争うことにした。しかし、その戦いの中で立烏帽子が改心して共に日本に巣食う悪魔を鎮めようと提案したが、田村麿は宣旨を受けているということもあって、その場は受け入れたが、やがて寝首を掻こうと考えていた。

それから月日を経た後に二人の間に正林という娘が生まれたが、田村麿は放置していた宣旨を遂行しようと思い、密かに立烏帽子を討つための計略を文に記して渡り鳥に都に運ばせた。それを察した立烏帽子は田村麿に腹を立てたが、その一方で宣旨を成せないことは夫の恥だと思い、田村麿の計略通りに二人で内裏を訪れた。そこでは立烏帽子を捕らえる準備がなされていたが、そこで立烏帽子は高丸の出現を予言し、この討伐に協力することを約束したので咎められることは無かった。

その後、田村麿は宣旨受けて近江国の高丸を討伐することになり、立烏帽子と協力してこれを討った。この後、立烏帽子が以前から大嶽丸という鬼神に狙われていることを明かし、大嶽丸討伐の宣旨が下るまで敢えて大嶽丸に捕われて、通力を以って弱らせようという計略を提案した。それから3年後、田村麿に大嶽丸退治の宣旨が下ると大軍を率いて陸奥国に向かい、龍馬で空を飛んで大嶽丸の城に入って立烏帽子と再会すると、立烏帽子は大嶽丸の多数の眷属は既に通力で捕縛したので易々倒せるだろうと教えた。この後、大嶽丸が姿を現したので、田村麿は素早丸、立烏帽子は大通連、小通連、顕明連という3本の剣を以って鬼どもを攻め、田村麿が大嶽丸の身体を4つに斬って止めを刺した。

それから、田村麿が大嶽丸の首を取って凱旋しようとすると、立烏帽子が自らの寿命が尽きそうであることを明かしたが、帝への報告を優先すべしということで、二人は泣く泣く別れて都と鈴鹿に帰っていった。その後、立烏帽子の死目に田村麿が立ち会うと、立烏帽子は自ら持つ宝剣を日本の国宝にするように言って果ててしまった。これを嘆いた田村麿は悲しみのあまりに自身も気を失って冥土に旅立つことになる。そこで、田村麿が閻魔大王に立烏帽子を返すように頼むと、立烏帽子の肉体は既に無くなっているので、小松前という別の女を身代わりにするというこで田村麿の願いを聞き入れた。その後、田村麿は大通連と小通連を帝に献上し、小松前を都に呼んで妻に迎えた。それからも田村麿はあちこちで悪魔を退治して天下の大将軍と仰がれるようになり、96歳で天寿を全うして田村大明神として崇められることになった。また、娘の正林は93歳まで生きて地蔵菩薩となったとされている。

「地方伝説」における田村丸(把握しているもののみ)


東北地方


東北地方には、岩手県、宮城県、福島県を中心に数多くの鬼退治伝説が残されている。田村麻呂は大嶽丸、悪路王、高丸といった鬼(または蝦夷)と戦ったとされ、その眷属の鬼と戦ったという伝説もある。また、母とされる悪玉に関する伝説も数多く残されている。その他にも大蛇や大蟹と戦ったという伝説もある。また、東北地方には田村麻呂が創建したとされる社寺が非常に多く、併せて数多くの奉納伝説や開湯伝説も残されている。

関東地方


関東地方には、栃木県、茨城県、埼玉県に田村麻呂の伝説が残されている。栃木県では田村麻呂が蝦夷と戦う際に見張り台を設けたという話や、高丸、悪路王という蝦夷を討ったという話がある。茨城県には討ち取った悪路王の首を神社に納め、それを模した首像を作ったという話がある。埼玉県には田村麻呂が大蛇を討ったという風洞の字名の伝説が残されている。

中部地方


中部地方には、長野県、三重県を中心に田村麻呂の伝説が残されている。長野県では八面大王や紅葉鬼人という鬼を討ったという伝説があり、三重県には鈴鹿市にて田村麻呂の妻とされる鈴鹿御前に関する伝説や、熊野市にて金平鹿という鬼を討ったという伝説や、岩窟に棲み着いた四鬼を討ったという伝説が残されている。また、愛知県には田村麻呂が大鰻を討ち取ったという伝説も残っているらしい。また、静岡県と長野県には奉納伝説がいくつかある。

近畿地方


近畿地方には、滋賀県、京都府、和歌山県に田村麻呂の伝説があり、滋賀県には田村麻呂が鈴鹿山の鬼と戦う前に戦勝祈願をしたという場所や田村麻呂が建てた社寺に関する伝説がある。京都府には田村麻呂が建てた清水寺に関する伝説がある。和歌山県には田村麻呂が蜘蛛という賊を退治したという伝説がある。また、京都府と兵庫県には奉納伝説がいくつかある。

中国地方


中国地方には、岡山県の由加山に棲む阿久良王という鬼を田村麻呂が討ったという伝説がある。