小りん【ショウリン】
珍奇ノート:小りん ― 坂上田村丸と鈴鹿御前の娘 ―

小りん(しょうりん)とは、伝説上の坂上田村麻呂と鈴鹿御前の娘のこと。

御伽草子では鈴鹿山の守護神となったとされ、奥浄瑠璃では死後に地蔵菩薩となったとされる。


基本情報


概要


小りんは、坂上田村麻呂鈴鹿御前立烏帽子)の間に生まれた娘で、坂上田村麻呂を題材とした物語作品や岩手県に伝わる伝説などで その存在が語られている。

小りんの表記は資料によって様々で、聖林、正林、小林、小輪などと記される。また、読み方にも しょうりん(しやうりん) や しょうりゅう(しやうりう) というものがある。なお、岩手県の伝説においては松林姫と称されている。

御伽草子『田村の草子』

『田村の草子』では、鈴鹿山の大嶽丸を討伐せよとの宣旨を受けた田村丸が、大嶽丸を探している間に鈴鹿御前と出会い、鈴鹿御前と協力して大嶽丸を討った後に、二人で鈴鹿山で暮らすようになり、やがて鈴鹿御前が懐妊して後に聖林が生まれたとされる。その後、聖林は鈴鹿御前と共に鈴鹿山で暮らしていたが、やがて鈴鹿御前が天寿を全うして死んでしまう。

鈴鹿御前は死の間際に聖林のことを田村丸に託したが、田村丸は鈴鹿御前の死後の17日後に悲しみのあまり冥土に旅立ってしまい、そこで暴れて冥土の神々に鈴鹿御前を帰すように命じた。その時には既に鈴鹿御前の肉体は無くなっていたが、宝尺の薬を使うことで元通りになるということで、田村丸は冥土で3年過ごしたという。なお、冥土における3年は地上の45年に当たるとされるが、その間の聖林に関することは一切記されていない。

御伽草子『鈴鹿の草子』

『鈴鹿の草子』では、鈴鹿山の立烏帽子を討伐せよとの宣旨を受けた田村将軍が、神仏の力を借りて立烏帽子の館を見つけると、そこで初めて立烏帽子と出会った。立烏帽子は絶世の美女だったので田村将軍は一目で恋心を抱いたが、宣旨を受けていることもあって、剣を打ち合わせて戦うことにした。しかし、勝負がつかなかったので、互いに語り合うと、立烏帽子は田村将軍の恋心を受け入れて剣を収めることにした。その後、二人で暮らすようになり、やがて小りんが生まれたとされる。

それから、立烏帽子は鈴鹿御前と称されるようになって、小りんと共に鈴鹿山で暮らしていたが、鈴鹿御前が鈴鹿山の来てから25年経った時に天寿を全うしてしまう。鈴鹿御前は死の間際に小りんのことを田村将軍に託し、自身の持つ3本の剣のうち、大通連と小通連の2本を田村将軍に、顕明連を小りんに授けて死んでいった。それからしばらくすると、田村将軍も鈴鹿御前の死を思い詰めて冥土に旅立ってしまい、小りんは両親を失ってしまった。

田村将軍は冥土で閻魔大王に鈴鹿御前を現世に帰すように頼んだが、閻魔大王が断ったので、田村将軍が大通連を持って暴れると、困った閻魔大王は鈴鹿御前を別人の肉体と入れ替えて現世に戻すことを提案した。しかし、田村将軍が納得しなかったので、不死の薬で鈴鹿御前を蘇らせることにし、冥土で3年過ごした後に現世に帰っていったという。この間、小りんは鈴鹿山の守護神となり、長い間 鈴鹿の主と呼ばれるようになったとされている。

奥浄瑠璃『田村三代記』

『田村三代記』では、鈴鹿山の立烏帽子を討伐せよとの宣旨を受けた田村麿が、神仏の力を借りて立烏帽子の館を見つけると、そこで初めて立烏帽子と出会った。立烏帽子は絶世の美女だったので田村麿は一目で気に入ったが、宣旨を受けていることもあって、剣を打ち合わせて戦うことにした。しかし、勝負がつかなかったので、田村麿が呆けていると、立烏帽子が今までは日本を魔国に陥れようと思っていたが、これからは田村麿を夫とし、心を入れ替えて日本の悪魔を共に鎮めようと思うと言ったので、それからは鈴鹿山で二人で暮らすようになり、3年経った時に正林が生まれたとされる。

その後、正林は立烏帽子と共に鈴鹿山で暮らしていたが、立烏帽子が鈴鹿山の来てから25年経った時に天寿を全うしてしまう。立烏帽子は死の間際に正林のことを田村麿に託したが、田村麿は立烏帽子の死を嘆くあまり冥土に旅立ってしまう。田村麿は冥土で閻魔大王に立烏帽子を返してくれるように頼むと、閻魔大王は断って田村麿に帰れと命じたが、田村麿が帰ろうとしないので、既に無くなっていた立烏帽子の肉体を小松前という女の肉体と入れ替えて帰すことにした。

それから田村麿は冥土から自分の肉体に戻って目覚めると、そこは鈴鹿山の何もないところで自分の腕には正林が抱かれていた。この後、田村麿は近江国から小松前を呼んで妻に迎え、立烏帽子との再会を果たした。その後、正林は93歳まで生きて天寿を全うし、地蔵菩薩となったとされている(一説に岩手県花巻市にある松林寺地蔵堂の子安地蔵とされる)。

地方の伝説
岩手県にある岩手山には「坂上田村丸が岩手山に棲む大武丸という鬼を討ち取った後、岩手山には田村丸が化身した岩鷲大権現が、烏帽子山には妻の立烏帽子神女が、姫神山には二人の娘の松林姫が、それぞれ神として現れた」という伝説があるという。

また、岩手県遠野市には「坂上田村麻呂が蝦夷征討に向かった頃、奥州に玉山立烏帽子姫という者が居り、田村麻呂は立烏帽子姫の案内によって夷の首長・大岳丸を討った。その後、二人は夫婦となって義道と松林姫という子を儲け、後に松林姫はお石、お六、お初という三女を産んだ。天長年間にお石は速佐須良姫を奉じて石上山に登り、お六は速秋津姫を奉じて六角牛山に登り、お初は瀬織津姫を奉じて早池峰に登った」という三女神伝説があるという。

データ


種 別 伝説上の人物、神仏
資 料 『田村の草子』『鈴鹿の草子』『田村三代記』ほか
年 代 平安時代
備 考 坂上田村麻呂と鈴鹿御前(立烏帽子)の娘とされる

資料


岩手山の大武丸(岩手山近辺)
昔、岩手山の山頂にある鬼ヶ城に大武丸という鬼が棲んでおり、周辺一帯を支配していた。延暦16年(797年)に坂上田村丸が討伐に向かうと大武丸は霧深い鬼ヶ城の中に立て籠もった。田村丸は霧の晴れるのを待って一挙に攻め入り、大武丸を八幡平に追いつめて滅ぼした。

その後、岩手山には神となった田村丸が岩鷲大権現として現れ、烏帽子岳(乳頭山)には田村丸の妻である立烏帽子神女が現れ、姫神山には田村丸と立烏帽子神女の娘の松林姫が現れたという。

三女神伝説(岩手県遠野市)
坂上田村麻呂が東夷征討に向かった頃、奥州に国津神の後胤である玉山立烏帽子姫という者がおり、その美貌から夷の首長・大岳丸に言い寄られていたが応じることはなかった。田村麻呂は立烏帽子姫の案内によって夷を討伐し、岩手山で大岳丸を討ち取った。

この後、田村麻呂と立烏帽子姫は夫婦となって一男一女を産んだ。その名を田村義道、松林姫という。その後、義道は奥州安倍氏の祖となり、松林姫は お石、お六、お初 という三女を産んだ。この三女は各地にいた牛や鳥に乗って集まり、その場所を附馬牛という。

天長年間(824~834年)、お石は守護神として崇敬していた速佐須良姫の御霊代を奉じて石上山に登り、お六は守護神の速秋津姫の御霊代を奉じて六角牛山に登り、お初は瀬織津姫の御霊代を奉じて早池峰へと登った。