立烏帽子 / たてゑぼし【タテエボシ】
珍奇ノート:立烏帽子 ― 坂上田村麻呂の妻となった化生の者 ―

立烏帽子(たてえぼし)とは、鈴鹿山に棲んでいたと伝えられる化生の者のこと。

鈴鹿山で人々から金品を略奪していたことから、勅命によって派遣された坂上田村麻呂と戦った。

しかし、討伐されることはなく、戦いの中で和解して夫婦になったといわれている。


基本情報


概要


立烏帽子は、鈴鹿山に棲んでいたとされる化生の者(化物の類)で、伝承や資料によって 女盗賊・鬼女・天女・魔王の娘・山の神 など立場が異なるが、多くの伝承では絶世の美女であり、神通力を使うことができたとされている。

立烏帽子は鈴鹿山で道を行き交う人々から金品を略奪していたことから、勅命によって討伐にやって来た坂上田村麻呂と戦うことになったが、戦いの中で互いに恋心が芽生え、やがて結ばれて小りん(松林姫)という娘を儲けたとされる。田村麻呂と結ばれた後は鈴鹿御前と呼ばれるようになり、高丸や大嶽丸といった鬼神討伐に協力するようになった。また、鈴鹿山の主として山を守護する役目を負い、天命が尽きてからは娘の小りんが その役目を受け継いだとされている。

このように立烏帽子と鈴鹿御前は同一の存在とされるが、情報量が多いため以下は立烏帽子について特筆する。

立烏帽子の出自
立烏帽子の出自は主に物語作品で語られており、御伽草子『鈴鹿の草子』では「鈴鹿山に天降った天上界の天人」とされ、奥浄瑠璃『田村三代記』では「第四天の魔王の娘」とされている。また、御伽草子『田村の草子』には立烏帽子という名は登場しないが、それに代わる鈴鹿御前は「鈴鹿山に天降った天女」とされている。この他に立烏帽子の出自を語る伝承は少ないが、滋賀県甲賀市の田村神社にまつわる伝承では「鈴鹿山に棲み着いた女鬼」とされている。

立烏帽子の容姿
立烏帽子の容姿は主に物語作品で語られており、御伽草子『鈴鹿の草子』では「17歳ほどに見える美女で、金輪状の直垂に鎧を付け、高紐を強く締め、三代具現の小手を差し、上覧美麗の脛当てを付け、示現灯明の御刀を差し、三尺一寸の如何物造りの太刀を帯びている」というものだったとされ、奥浄瑠璃『田村三代記』では「28歳ほどに見える十二単衣を纏った美しい女」であったとされている。

また、鈴鹿御前として描かれる御伽草子『田村の草子』では「28歳ほどに見える美女で、髪に玉の簪(かんざし)を挿し、金銀の瓔珞(ようらく)を掛け、唐錦の水干に紅の袴を履いている」という姿であったとされている。

立烏帽子の能力
立烏帽子の能力は主に物語作品で語られており、姿を消す、人の心を読む、未来を予知する、天に星を招く、相手を縛る、雲に乗って空を飛ぶ などの能力を持ち、田村将軍には火界の印という火の雨を降らせる術を教えたとされる。

また、滋賀県甲賀市の田村神社にまつわる伝承では変幻自在の能力を持っていたとされ、美女に化けて鈴鹿山に潜む山賊を魅了し、手下として使っていたと伝えられている。

立烏帽子の武具
立烏帽子の武具については物語作品で語られており、御伽草子『鈴鹿の草子』や奥浄瑠璃『田村三代記』では、大通連(だいとうれん)、小通連(しょうとうれん)、顕明連(けんみょうれん)という3本の剣を使ったとされており、これらの剣には火や水、あるいは鳥獣に見を変えたり、自ら空を飛んで敵に斬りかかることができたとされる(この3本の剣は「三明の剣」と総称されている)。

この3本の剣は高丸や大嶽丸といった鬼神討伐の際に使われたが、立烏帽子の死の間際に田村将軍に預けられ『鈴鹿の草子』では「大通連と小通連の2本を田村将軍に、顕明連を娘の小りんに授けた」とされ、『田村三代記』では「立烏帽子が日本に納めることを望んだので、田村将軍が大通連と小通連の2本の剣を帝に献上した」とされる。

また、こうした物語作品では、立烏帽子は「神通の車」という空を飛ぶことができる車を所持していたとされ、普段の移動や田村将軍と共に戦場に向かう時などに使ったとされている。

坂上田村麻呂との馴れ初め
多くの伝承では、立烏帽子は鈴鹿山で道を行き交う人々から略奪していたことから、坂上田村麻呂に討伐の勅命が下り、これによって出逢うことになったとされている。

御伽草子『鈴鹿の草子』では「勅命によって鈴鹿山に向かった田村将軍は、立烏帽子と出逢った時に一目惚れしてしまったが、勅命に背かないために戦うことにした。田村将軍と立烏帽子は互いに剣を打ち合わせて戦ったが勝負がつかず、立烏帽子は"田村将軍を倒すのは容易だが敵意は無い"と言って剣を収めた。そこで田村将軍の恋心を見抜いてこれを受け入れ、この後に二人で暮らすようになった」とされる。

御伽草子『立烏帽子』では「田村将軍は勅命を受けて立烏帽子を討ちに行ったが、立烏帽子が池中に浮かぶ島の御殿に住んでいたので攻める術がなかった。そこで田村将軍は矢文で立烏帽子とやり取りを始めると、その中でやがて恋心が芽生えた。そこで立烏帽子は"夫の阿黒王を疎んじているので、これを討ってくれるならば田村将軍と妹背の契りを結ぶ"と言った。これに田村将軍が応じると立烏帽子は阿黒王の討ち方を教えたので、後に田村将軍が阿黒王を討ち取ると晴れて立烏帽子と結ばれることになった」とされる。

奥浄瑠璃『田村三代記』では「勅命によって鈴鹿山に向かった田村将軍は、立烏帽子と出逢った時に一目惚れしてしまったが、勅命に背かないために戦うことにした。田村将軍と立烏帽子は互いに剣を打ち合わせて戦ったが勝負がつかず、立烏帽子は"田村将軍を倒すのは容易だが敵意は無い"と言って剣を収め、そこで"私は日本を魔国にするために天降り、奥州の大嶽丸に妻にするように文を送ったが返事がなかった。今回の出逢いによって悪心を改めて田村将軍と馴れ初めることにし、これからは善心を持って共に日本の悪魔を鎮めようと思う"と言ったが、田村将軍は納得できなかったので渋々応じて、後に寝首を掻こうとした」とされている。

立烏帽子の子
坂上田村麻呂と立烏帽子(鈴鹿御前)の間には 小りん という娘がいたとされる。

この小りんは主に物語作品に登場し、御伽草子『鈴鹿の草子』では「鈴鹿御前の死の間際に顕明連を受け継いで、鈴鹿山の守護神となった」とされ、奥浄瑠璃『田村三代記』では「正林は93歳まで生きて地蔵菩薩となった」とされている。御伽草子『田村の草子』にも登場するが、詳細な描写は記述されていない。

また、岩手県遠野市には「坂上田村麻呂が蝦夷征討に向かった頃、奥州に玉山立烏帽子姫という者が居り、田村麻呂は立烏帽子姫の案内によって夷の首長・大岳丸を討った。その後、二人は夫婦となって義道と松林姫という子を儲けた」という伝説もあるという。

神としての立烏帽子
立烏帽子は神として伝えられることもあり、『紀州熊野大泊観音堂略縁起』では「熊野の鬼神討伐に向かった坂上田村麿が討ち逃した悪鬼の頭目の居場所を探す際に、立烏帽子の名を呼びながら祈ると雲中から現れた天女によって居場所を教えられた」とされ、この故事によって烏帽子山という名が起こったとされている。

また、岩手県にある岩手山には「坂上田村丸が岩手山に棲む大武丸という鬼を討ち取った後、岩手山には田村丸が化身した岩鷲大権現が、烏帽子山には妻の立烏帽子神女が、姫神山には二人の娘の松林姫が、それぞれ神として現れた」という伝説があるという。

この他にも、鈴鹿峠に鎮座する片山神社には「坂上田村麻呂が立烏帽子と戦った後に夫婦となり、二人で鈴鹿山の鬼神を退治したので、二人が亡くなった後に付近の里人が立烏帽子を鈴鹿権現として祀り、田村麻呂を田村堂に祀った」という伝説があるとされている。

また、物語作品においては、御伽草子『田村の草子』では「鈴鹿御前は竹生島の弁財天女が化身したものである」とされ、奥浄瑠璃『田村三代記』では「立烏帽子は死後に小松前として蘇り、113歳で天命を迎えて清瀧権現となった」とされている。

坂上田村麻呂に討伐された立烏帽子
立烏帽子は坂上田村麻呂に討伐されたという伝承もあり、『耕雲紀行』では「田村麻呂に敗れた際に被っていた立烏帽子を山に投げると石になった」とされ、秋田県の伝承では「立烏帽子はあくる王という鬼の妻であり、夫婦共々田村利仁に斬られて滅ぼされた」とされている。また、一説に三重県には「立烏帽子は田村麿の妻を奪ったが、清水寺の観音の霊験によって倒された」という伝説もあるらしい。

データ


種 別 伝説の人物、怪人、鬼女、神仏
資 料 『保元物語』『耕雲紀行』『御伽草子』ほか
年 代 平安時代
備 考 鈴鹿御前と同一とされる

関連記事



関連資料