カナツブテ【金礫 / 金飛礫】
珍奇ノート:カナツブテ ― 大和国奈良坂山の怪僧 ―

金礫(かなつぶて)とは、御伽草子に登場する怪僧のこと。

金礫という武器を使って人々から略奪していたことから、坂上田村麻呂に退治されたという。


基本情報


概要


カナツブテは、御伽草子の『田村の草子』と『鈴鹿の草子』に登場する怪僧で、大和国の奈良坂山で道を行き交う人々を襲って都への貢物を略奪していたので、勅命を受けた田村将軍(伝説上の坂上田村麻呂)が討伐したとされる。作中では、田村将軍は10代でカナツブテを討った功績によって将軍に任じられたとされている。

カナツブテは、金礫(かなつぶて)という武器を使ったことからこの名で呼ばれており、この金礫は重い金属の塊で、表面には無数の角(とげ)があったとされる。カナツブテはこれを相手に投げつけて攻撃し、地面に打ち付ければ落雷があったように震えたという。また、金礫には太郎礫、次郎礫、三郎礫の3種類あり、このうち太郎礫が最も重く強力だったとされ、地面に打ち付けると辺りは暗闇になって百千もの落雷があったような衝撃が走ったという。しかし、このような強力な武器とされていながら、作中では田村将軍に扇で打ち落されたり、馬上から蹴り落とされたりと呆気なく封じられている。

『田村の草子』におけるカナツブテは「りやうせん」という名前であり、身長は約2丈(6.06m)、高い抹額を着け、頬骨の突き出た恐ろしい顔つきの法師だったとされる。また、飛行自在であり、田村将軍との勝負に負けた後にたちまち逃げ去ったが、田村将軍の放った神通の鏑矢に追い回されて7日7晩かけて山海を逃げ回った後、とうとう降参して田村将軍に命乞いをした。しかし、処罰は帝が決めるとして都に連れて行かれた。そこで死罪が決まると、舟岡山で処刑され、首は獄門にかけられて道に晒されたという。なお、金礫の特徴は、三郎礫は重さ300両(約11kg)で角が183あり、太郎礫は重さ600両(約23kg)で角が無数にあり、1000年以上前から唐土・高麗を経て日本に渡ったものだとされる。

『鈴鹿の草子』おけるカナツブテは「こんざう」という名前であり、身長は約2丈(6.06m)で奥目の法師だったとされる。こんざうは田村将軍との勝負に負けた後にたちまち逃げ去ったが、田村将軍の放った神通の鏑矢が左耳に付いて追い回したので、7日後に降参して田村将軍に命乞いをした。都に連れて行かれると、そこで死罪が決まり、首を斬られて奈良坂山の峠に晒されたという。なお、金礫の特徴は、三郎礫は重さ重さ3000両(約113kg)で角が460あり、全ての金礫は先祖から相伝してきたものだとされている。

データ


種 別 伝説の人物、怪人
資 料 『宝物集』『田村の草子』『鈴鹿の草子』
年 代 平安時代
備 考

資料


御伽草子『田村の草子』



ある時、大和国の奈良坂山に金礫(かなつぶて)を打つ化生が現れて、道を行き交う人々を襲って都への貢物を略奪していたので、帝は田村丸に金礫討伐の勅命を下した。田村丸は500騎ほどの軍勢を率いて奈良坂山に向かった。この化生は霊仙(リヤウセン)といい、田村丸は霊仙を捕らえるための策として、数多の綺麗な小袖を川で濡らして木々に掛け並べた。

しばらく後、身の丈2丈(6.06m)ほどの法師が現れた。その姿は、高い抹額を着けて、頬骨の突き出た顔立ちという恐ろしい有様であり、その法師は高い所に駆け上って木々に掛け並べられた小袖を見ると「この霊仙を謀るというのか、よし、それならば手並みの程を見せてみよ。更に良い物があるなら残らず置いていけ」と言って嘲笑った。

その時、田村丸は「これは帝への貢物である。私の命がある限り手に入ると思うな」と言うと、霊仙は「身なりは立派だが、華奢で口が悪いと見える。よし、この三郎礫を以って勝負してやろう。この礫は重さ300両(約11kg)、角は183もある。さあ受けてみよ」と言って一振りすると、天地が雷鳴のように震えた。これに田村丸は騒ぐことなく、扇を以って打ち落とすと、霊仙は次の次郎礫を振るってきたので、田村丸はこれも扇で打ち落とした。

すると、霊仙は青ざめたが、礫をもう一つ取り出して「この太郎礫は山を盾としても微塵にしてしまう物だ。重さは600両(約23kg)、角は無数にある。これは唐土に500年、高麗に500年、日本に80年、この山においては3年になる。多くの宝を奪えたのもこの礫のお陰である。小童を殺すのは気が引けるが、口の悪い奴には今から暇を取らせてやろう。さあ念仏を唱えるがよい」と言って、力強く踏ん張ってから礫を打ち付けると、辺りは暗闇になって百千の雷が一度に落ちたような衝撃が走り、500人の兵たちは皆恐れてひれ伏してしまった。だが、田村丸は少しも騒がずに、馬を立て直して鐙の上から霊仙の金礫を蹴落とすと、礫は鳴り静まって暗闇も晴れた。

頼みの綱を失った霊仙は、為す術がなくなったので急いで元居た山に帰っていった。そこに田村丸が駆け寄って「どうだ御坊、お前の手並みは口ほどにもないようだな。私にはお前の礫ほどのものは無いが、三代相伝した鏑矢がある。これを受けてみよ」と言って神通の矢を射ると、霊仙の耳の根3寸をかすめて鳴り響いた。霊仙は元より飛行自在の者であったので、7日7夜の間 山海を駆けて逃げ回ったが、田村丸は "霊仙は鏑矢からは逃れられずにやがて帰ってくるだろう" と考えて、春日山に陣を敷いて待っていた。

すると、霊仙は7日目に帰ってきて、田村丸の前で手を合わせ「いくら逃げても耳から離れない弓矢を扱う武将が居たとは知りませんでした。これに懲りたので今から悪事を止めます。命を助けていただければ家来になりましょう」と泣きながら頼んだが、田村丸は「お前の処分は帝が決めることだ。まずは戒めて都に参れ」と言って鉄の鎖縄で縛り上げて籠に入れ、霊仙を都に連れ帰った。そして、帝に引き渡されると霊仙に死罪が申し渡され、船岡山で処刑されて、首は獄門にかけられて道に晒された。やがて、田村丸は17歳で将軍に任じられ、陸奥国の初瀬郡に越前を添えた領地が与えられた。

御伽草子『鈴鹿の草子』



稲瀬五郎俊宗(後の田村将軍)が15歳の時、大和国の奈良坂山に金礫(かなつぶて)を打つ化生が現れて、道を行き交う人々を襲って都への貢物を略奪していたので、帝は俊宗に金礫討伐の勅命を下した。俊宗は100騎ほどの軍勢を率いて奈良坂山に向かった。俊宗は金礫を捕らえるための策として、数多の質の良い染物を峠に掛け並べた。

すると、遥か遠くの谷から身の丈2丈(6.06m)ばかりの奥目の法師が現れて、高い所に駆け上ると「なんと珍しいことか、この山に住んで5,6年になるが、このような高価な物が隠さずに置かれていたことなど無い。我は神通の者であり、賢者でもあるので、志もなく取ることはない。これが帝への貢物ならば置いた者が居るはずだ。さあ、出てこい、さもなくば この金礫で命を止めてやろう」と大声で叫んだ。

その時、俊宗は騒ぐことなく「これは帝への貢物である。これを奪おうとするお前をどうにかして止めなければならない。さて、この神通の鏑矢で仕留めてやることにしよう」と言うと、法師は「口が悪いが、それはどうでもよい。この先祖より相伝してきた金礫をお前に食らわせてやろう。この三郎礫は重さ3000両(約113kg)、角は460もある。響く音は1000頭の牛の咆哮のようである。さあ受けてみよ」と言って投げつけたが、俊宗は騒ぐことなく扇で打ち落とすと、法師は次の礫を持って「この次郎礫は投げれば雷電を放ち、岩をも崩すことができる」と言って投げてきたので、俊宗はこれも扇で打ち落とした。

すると、法師は「これは曲者だな。ならば この太郎礫を食らうが良い。この礫は普段は使わないが、余りに主を憎く思った時に投げたものである。しかと受けてみよ」と言って投げつけたが、俊宗は鐙に乗ったままで蹴落とした。これを見たコンザウ法師は今は敵わないと思って逃げていったが、俊宗が「あの法師はどこに逃げるつもりだ。手並みの程を見せてみよ」と言って、角の槻弓に神通の鏑矢をつがえて射放つと、法師の左耳に付き纏って7日間鳴り続けた。

法師は散々逃げ回ったが余りのうるささに、やがて元の場所に戻ってきて俊宗に命乞いをした。俊宗はコンザウ法師を捕らえると、500余騎の馬の前に立たせて都に連れ帰った。これを帝に報告すると「斬るべし」と勅命が下ったので、法師は首を斬られて奈良坂山の峠に晒された。その後、しばらくは平和が戻り、俊宗は今回の活躍によって天下の大将軍に任じられた。