珍奇ノート:坂上田村麻呂の地方伝説



東北地方


青森県


岩木山神社の由緒(弘前市)
宝亀11年(780年)、岩木山の山頂に社殿を造営したことに始まるとされ、延暦19年(800年)に岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、他に十腰内地区に下居宮を建立して、山頂の社は奥宮とされた。また、父の刈田麿も合祀したとされる。

一説に「田村麻呂が勅命を受けて奥羽の蝦夷を討伐しに来た際、容易に征服できなかったので祀誓を寵めて神明の加護を仰ぐと、どこからともなく異形の勇士が現れて、大柳を根抜きにして振り回しながら敵軍に突入して一気に平定した」という伝説があり、これが当社で蘇民将来符が授与される由来となったといわれている。

岩手県


岩手山の大猛丸(岩手山近辺)
昔、岩手山近辺は大猛丸という鬼の領地だったが、延暦16年(797年)に坂上田村麻呂が攻めたてると大猛丸は霧深い岩手山の鬼ケ城に立て籠もった。そこで、田村麻呂は霧の晴れ間に一挙に攻め入り、大猛丸を八幡平に追いつめて滅ぼしたという。

達谷窟毘沙門堂の縁起(岩手県西磐井郡平泉町)
平安時代、この地には悪路王、赤頭、高丸という蝦夷がおり、岩窟に要塞を構えて悪事を働いて周辺の良民を苦しめていた。これに国府が対応したが、その力では蝦夷を抑えることはできなかった。そこで、桓武天皇は坂上田村麻呂に蝦夷征討の勅命を下して奥州に派遣した。

この時、悪路王たちは達谷窟から3000人の賊徒を率いて駿河国の清美関まで攻め入っていたが、田村麻呂が京を出立したと聞いて恐れをなして岩窟に戻っていった。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は蝦夷との激闘の末に岩窟の守りを固める蝦夷を討ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ねて蝦夷平定を果たした。

猪川観音の縁起(大船渡市)
気仙三観音の一つの猪川観音(長谷寺)は、大同年間に大嶽丸の残党で赤顔(あかがしら)と称して気仙地方を支配していた金犬丸(きんけんまる)を坂上田村麻呂(一説に副将軍の別府隼人)が討ち取り、土中に埋めた首の上に御堂を建てて十一面観音を祀ったことに始まるとされている。また、宝永元年(1704年)に寺域から赤頭の歯とされるものが発掘され、その内の33枚が鬼の牙として寺宝になっている(実は原始水牛の歯らしい)。

小友観音の縁起(陸前高田市)
気仙三観音の一つの小友観音(常膳寺)は、大嶽丸の残党の早虎(はやとら)を坂上田村麻呂(一説に副将軍の別府隼人)が討ち取り、土中に埋めた首の上に御堂を建てて十一面観音を祀ったことに始まるとされている。

矢作観音の縁起(陸前高田市)
気仙三観音の一つの矢作観音(観音寺)は、大嶽丸の残党の熊井(猪熊)を坂上田村麻呂の副将軍・別府隼人が大鷹の羽根を使った矢で討ち取り、土中に埋めた首の上に観音堂を建てたことに始まるとされている。

洗い田の由来(花巻市)
昔、鬼屋敷という所に魔王丸という鬼が棲んでいたが、坂上田村麻呂によって征伐された。魔王丸の首は切り落とされ、その刀を洗ったところは「洗い田」と呼ばれるようになった。

鬼丸と地名由来(大船渡市三陸町)
昔、鬼丸という者が坂上田村麻呂に追われて衣川から逃げてきて、ある峠で振り返った時に田村麻呂が来てなかったので「ここは"頼もしい峠"だ」と言ったが、すぐに追いついてきたので「"頼もしくない峠"だ」と言った。なので、その峠は「茂志内峠」と呼ばれるようになったという。

また、鬼丸は「鬼沢」の「鬼柳」という場所で田村麻呂に追いつかれて殺された。それから鬼丸の首が流れ着いた場所を「首崎」、脛が流れ着いた場所を「脚崎」という。

不思議な泉の伝説(大船渡市三陸町)
三陸町に坂上田村麻呂が刀を置いていった家があるという。ある時、盗人が田村麻呂の刀を持ち出し、泉で水を飲もうと傍らに置いたところ、刀が蛇になったので盗人は逃げ出した。その泉を「のまねいみず」と言い、刀のサビを拭き取った白紙を水に溶かして飲むと水あたりや咳に効き目があるという。

白と黒の大蛇(和賀郡東和町)
毘沙門山の裏沼に白と黒の大蛇がいて、田の水を留める役を負っていた。ある月夜の晩、黒い大蛇が人間に化けて酒盛りしていたところ、坂上田村麿に矢を射られて、苦しみのあまりに北上川に入って石になってしまったという。また、白い大蛇は80年代に道路に横たわっているところを地元民が見たといわれている。

ナツヤケの由来(下閉伊郡岩泉町)
昔、田村麿将軍が投げた石が火を出して野を焼いたことから「ナツヤケ」という土地ができた。

鬼の手判(下閉伊郡岩泉町)
昔、田村麿将軍は懲らしめた女鬼を荷運びに使っていた。また、鬼が「もう人を獲らない」という証に岩手山の赤い岩に手判を押したという。

田村麻呂の大蟹退治(岩沼市押分)
坂上田村麻呂が蝦夷を平定して京に帰る途中、玉浦の原野を荒らして人々を悩ませる何万という大蟹の大群と出くわした。そこで、田村麻呂は軍兵に命じて原野の一方を閉鎖し、火を放って大蟹を追い詰め、逃げ惑う大蟹に熱湯を浴びせて退治したという。また、その時に東衛という者に観音堂を建てさせ、観音像を描いた軍旗を与えた。また、そこは「大蟹の倉」という地名だったが「岡二ノ倉」に変わったという。

宮城県


田村神社の由緒(白石市斎川)
延暦年間(782~806年)、坂上田村麿が東征の際に悪路王や赤頭といった荒土や丹砂を塗った妖怪と戦い、鈴鹿御前の援助で討伐した。その後、地元民がその返礼として祠を建てて、田村将軍と鈴鹿神女を祀った。これが白石市の田村神社の由緒になるが、当初はそこを古将堂(越王堂)と称していたという。

田村麻呂の大武麻呂退治(大崎市 鳴子温泉)
坂上田村麻呂が蝦夷の頭目の大武麻呂を捕えて箆岳山で斬首した。その首は泣きながら西の空に飛んでいき、落ちたところから湯が吹き上がった。よって、その場所は「鬼首」と呼ばれるようになり、そこから吹き出した湯を「吹上」という。

箆宮権現(箟岳観音)の由来(遠田郡桶屋町)
延暦2年(783年)、磐井郡の達谷の岩屋を根城としていた蝦夷の頭目・高丸が、駿河の清見ヶ関まで攻め上った。そこで坂上田村麻呂に高丸討伐の勅命が下り、田村麻呂は高丸を箆嶽に追い詰めて射ち殺し、その仲間の悪路王も斬り殺した。その後、田村麻呂は高丸の胴体を丘に埋め、山上に敵味方の遺体を埋葬し、その上に大塚を築いて観音堂を建てた。

また、地主権現の白山の社前の地面に残った矢を突き立てて「もし、再び東夷が起きることがないのならば、この矢は7日7夜の間に生きて枝葉を出すだろう」と誓約した。すると、そのとおりに矢竹から根が生えて生い茂って竹藪となった。それから竹藪の繁った山を箆(のの)と称し、山の権現は箆宮権現(ノノミヤゴンゲン)と呼ばれるようになった。この伝説から正月の25日には この竹を切って矢を作るようになったという。

田村麻呂の大蛇退治(黒川郡大和町)
昔、大沼に大蛇が棲んでおり、人に害を与えていた。大同2年(807年)、坂上田村麻呂が大蛇を退治し、その死体を埋めて その上に観音像を安置した。ここで法楽の舞を奉納したので「舞野」と呼ぶようになった。

鬼首の地名由来(玉造郡鳴子町)
鬼首という地名は「坂上田村麻呂が討ち取った鬼首峠の鬼の首が落ちてきた」あるいは「坂上田村麻呂が蝦夷のことを鬼と呼んでおり、逃げのびた蝦夷が住み着いたところを鬼切といい、これが訛って鬼首となった」から名付いたと言われている。

馬形沼の由来(白井市斎川)
馬形沼(ばぎょうぬま)は「昔 坂上田村麻呂が乗っていた馬が沼に突っ込んだ」あるいは「池の中央に馬形の中洲がある」から名付いたと言われている。また、この沼には馬首牛体の怪物が棲んでいたとも言われている。

烏帽子岩の伝説(白井市斎川)
坂上田村麻呂が流れの激しい斎川を渡る時、鹿島の神を祈って河中に投じた烏帽子が岩となったという。日照りの時にその渕を汲むとたちまちに雨が降るといわれている。

田村麻呂の母の足跡(宮城郡利府町)
胞衣桜は、九門長者の娘の阿区玉御前(あくたまごぜん)が坂上田村麻呂を生んだ時に後産(胎盤)を埋めたといわれており、安産の信仰を集めたという。また、産室原は阿区玉御前が出産の時に産屋を建てたところ、子安観音堂は阿区玉御前の守本尊を安置したところ、伊豆佐比売神社の九門長者屋敷跡は九門屋が住んだところ、神谷沢の化粧板は阿区玉御前が上洛するときに化粧をしたところと伝えられている。

田村麻呂の母の出産伝説(宮城郡利府町)
坂上田村麻呂の母の阿久玉御前が出産をする時、阿区玉御前の「覗かぬように」との約束を破って父の刈田麻呂が産屋を覗くと、阿久玉御前は大蛇の姿になって横たわっていて、血の中に田村麻呂が生まれていたという。なお、この時に阿久玉御前の血がかかったので刈安草の茎が赤いのだという。

秋田県


鬼面の伝説(房住山周辺)
秋田県の能代市と三種町にまたがる房住山には「鬼面」と呼ばれる阿計徒丸(あけとまる)、阿計留丸(あけるまる)、阿計志丸(あけしまる)という長面の三兄弟が住み、眷属を指揮して良民を苦しめるていたので坂上田村麻呂に討伐されたという。

また、田村麻呂が房住山で鬼の慰霊法要をしていると、東の山上から日高山の麓の洞穴に逃れた阿計徒丸が目を覚まして「身の丈1丈3尺5寸ある大長丸(おおたけまる)と申す」と叫んだといわれている。

福島県


刈田丸と田村麻呂の伝説(郡山市)
国見山で大武丸が反乱を起こした時、刈田丸(刈田麻呂)が討伐に派遣された。そこに刈田丸が陣を敷くと、陣中に怪しい光が差し込んだので その光を追っていくと、木賊田村の清水で根芹を摘んでいる三国一の醜女が目に入った。そこで、刈田丸がその醜女を伴うと、珠のような男児が生まれた。

その後、刈田丸が大武丸を倒すと都に帰っていった。それからしばらくして男児が成人になると、父の刈田丸に逢いに都に向かった。男児が刈田丸と対面するとそこで田村麻呂と名付けられた。田村郡という名は田村麻呂の出身地であることに因んで名付けられたという。

100頭の鞍馬伝説(田村郡三春町)
昔、大滝根山の石窟に大多鬼丸という蝦夷が棲んでいた。坂上田村麻呂が蝦夷征討にやって来た際、延鎮上人(清水寺の開祖)が仏像を刻んだ余材で100頭の鞍馬を刻んで贈った。田村麻呂はこれを鎧櫃に納めて戦に望んだが、大多鬼丸が強ったので次第に追い込まれていった。その時、どこからか100頭の鞍馬が陣営に走り込んできたので、軍兵たちはその鞍馬に跨って大滝根山に攻め込んで戦に勝利した。しかし、凱旋する時には鞍馬の姿は無くなっていたという。

その翌日、1頭の木馬が三春付近の高柴村で汗まみれになっているところを杵阿弥が見つけ、これは延鎮上人の鞍馬に違いないと思って99頭の自ら刻んで数を補った。その3年後、汗まみれになっていた1頭は姿を消してしまったので、残りの99頭を子孫に伝えた。その後、杵阿弥の子孫が木馬を模造して村人に与えると、それで遊ぶ子供たちは強健に育ち、病気もしても軽症で済んでいたので「子育駒」という名で呼ばれたという。

田村麻呂の仏像奉祀伝説(福島市)
昔、田谷窟に悪路王が棲んでおり、これを坂上田村麻呂が討伐した。その際に、信夫山中にあった夜毎に光る霊木を使って仏像を造り、この地に祀ったという。

加勢に来た地蔵伝説(石川郡平田村)
昔、蓬田山に鬼が棲んでおり、これを田村麻呂が討伐しに来たが、鬼が強くて苦戦を強いられた。その時、大きな地蔵が来て弓を張ってくれたので、戦に勝利した後に弓張木に地蔵菩薩を祀ったという。

関東地方


栃木県


木幡神社の由緒(矢板市)
蝦夷征伐にやって来た坂上田村麻呂が地峯村にて宿陣した時に「功あらば一祠を建立せん」と日頃崇敬していた山城国許波多神社(現・京都府宇治市)に向かって戦勝を祈願した。延暦14年(795年)、戦に勝利した田村麻呂が途中で当地に立ち寄り、ここに社を勧請した。これが木幡神社の始まりいわれている。

将軍塚の由来(矢板市)
昔、蝦夷征討の勅命を受けた坂上田村麻呂が当地にやって来た。その頃は蝦夷の勢いが盛んであったため、那須野が原には蝦夷の姿がしばしば見られた。そこで田村麻呂は蝦夷の大群に囲まれないようにと高い丘に見張り所を設けて、そこから蝦夷の様子を監視させることにした。

この見張り所と本陣があった所が今の「将軍塚」で、矢鏃を作らせたところが「矢櫃(やひつ)」、馬を繋いだ所が「馬立(またて)」、軍兵の食事を用意したところが「烹飯(にまま)」と名づいたという。

星宮神社に伝わる伝承(那須烏山市)
桓武天皇の御代に蝦夷の族長の悪路王が駿河方面まで進撃してきたため、勅命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に当たった。そこで烏山町落合に集結して那須山に籠もった高麻呂(高丸)や、烏山付近で悪路王などの蝦夷を討ったと伝えられている。

茨城県


悪路王の首像(鹿嶋市)
茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の宝物館には悪路王の首像・首桶がある。当社では「平安時代に坂上田村麻呂が奥州で征伐した悪路王(阿弖流為)の首を寛文年間・口伝により木製で復元奉納したもの。悪路王は、大陸系の漂着民族とみられるオロチョン族の首領で、悪路(オロ)の主(チョン)と見る人もいる」と説明しており、首像は寛文4年(1664年)に藤原満清が田村麻呂が征伐した悪路王の首級を木造で復元奉献したものであるとされている。

悪路王の首級(東茨城郡)
茨城県東茨城郡城里町高久にある鹿島神社には「延暦17年(798年)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北の蝦夷平定に向かった際、当社に立ち寄って戦勝を祈願した。そして、陸奥国平泉の達谷の窟(一説に下野達谷窟)を本拠地とした蝦夷と戦い、延暦21年(802年)4月に蝦夷の大将の阿弖流為(悪路王または高丸とも)を倒した。その帰途に再び当社に立ち寄った田村麻呂は勝利を感謝して阿弖流為の首を本社前に埋め、それを模した木製の首を造り、神社に奉納した」という伝説があるとされ、その木像は今でも存在しているという。

埼玉県


風洞の字名(本庄市)
平城天皇の御代、児玉(現・本庄市児玉町)には人に知られていない洞穴があり、そこに棲む大蛇が人畜を襲ったり農作物を荒らし回っていたので、近隣の人々に恐れられていた。そこで、天皇は坂上田村麻呂に大蛇退治の勅命を下し、これによって当地にやってきた田村麻呂は、北向きに五社の大明神を勧請し、その他にも仏像を安置するなど、数多の神仏に祈願した。また、自ら霊地を選んで山籠りし、37日間の護摩行をして大蛇退治と当地の守護を祈願した。

その後、田村麻呂が大蛇の棲む洞穴に出向くと、そこには雄雌2匹の大蛇がいた。その大蛇はそれぞれが2つの頭を持ち、太さは3m、長さは20mほどもあったという。田村麻呂らと大蛇は互いに睨み合った後に戦いを始め、その一方を東小平に追い詰めたが、そこで毒気を放ったので椚林小平成身という勇士が毒気に当たって死んでしまった。これを知った武士達は、この勇士の名をとって椚林と言い、成身院は小平が名乗り、字名を院号としたという。

やがて雌蛇は田村麻呂の神変通力の矢によって射殺されが、雄蛇は川上に退いていったので、田村麻呂らは夜に舟を出して雄蛇が出てくるのを待った。その場所は「待屋」と呼ばれ、舟を繋いだ場所は「船山」と呼ばれたという。夜明けが来ると、雄蛇は田村麻呂に追われたが、間瀬峠に逃げのびて峠の頂上で振り返って田村麻呂をまんじりと見つめたところから、この峠を「まんじり峠」と呼ぶようになった(後世、間瀬峠と呼ばれたという)。

こうして大蛇が退くと、児玉に平和が訪れた。この戦で田村麻呂が討ち取った雌蛇の骨は百駄あり、これを埋めたところに長泉寺が建立された。このため、寺の境内を骨畑と呼び、百駄の骨にちなんで山号を百駄山と号したという。また、大蛇の棲んでいた洞穴は埋められ、この地に神を祀って風洞と呼ぶようになったという。

田村麻呂の毒竜退治伝説(東松山市)
大同元年(806年)、坂上田村麻呂が正法寺の岩殿観音に祈願して当地に棲む毒竜を退治し、その首を弁天沼に埋めたという。

中部地方


長野県


鬼ヶ城の鬼(上田市)
角間渓谷には「鬼ヶ城」と呼ばれる大岩があるが、大昔には此処に鬼が棲んでいて近隣一帯を荒らし回ったという。ある時、坂上田村麻呂がやって来て鬼ヶ城の鬼を攻めたが、どうしても降伏させることができなかった。そこで田村麻呂が金縄山の観音様に祈願すると「桑の木を矢にして攻めよ」という霊告があったので、そのとおりにすると漸く鬼どもを降伏させることができた。この時に捕らえた鬼どもは金縄(金属の鎖)で縛って松の木に繋がれたとされ、この場所を「金縄山」、繋いだ松の木を「鬼松」、そこに祀った地蔵を「鬼松地蔵」と呼んだという。

田村麻呂の八面大王退治(安曇野市)
桓武天皇の御代、有明山の麓の魏石鬼窟に八面大王という鬼が棲んでおり、ここを根城にして手下を連れて人里を荒らしていた。これを聞いた坂上田村麻呂が討伐に向かったものの、八面大王が魔力を使って矢を弾くので近づくことができなかったので、田村麻呂が観音堂に籠って祈願すると「33節の山鳥の尾で作った矢を使えば、大王の魔力に防がれることはないだろう」という夢の告げがあった。

そこで田村麻呂は信濃の国中にその山鳥を探させる旨の布令を出すと、弥助という者が山鳥の尾を使った矢を献上してきた。この矢は弥助が以前に助けた山鳥の尾で作ったもので、その山鳥は人に化けて弥助の妻となっており、その恩返しとして自らの尾羽を残して去ったという。

山鳥の矢を手に入れた田村麻呂が これで八面大王を討つと、魔力で防がれること無く射抜くことができ、これを以って八面大王は討ち取られた。八面大王の死体は、魔力によって蘇ることを恐れられて五体を切り離されて埋葬されることになった。大王の耳は「耳塚」、足は「立足」、首は「筑摩神社」、胴は「「御法田の大王農場」に埋められたという。

矢村の弥助(安曇野市)
有明山の麓に棲む弥左衛門には弥助という息子がおり、幼い頃に八面大王という鬼にさらわれた。成長した弥助は、ある時に大きな山鳥を助けた。それから3日後、弥助は美しい娘を娶ることになった。そのうち、また八面大王が暴れ始めたので、大王を討伐しにやって来た坂上田村麻呂が観音堂で祈ったところ、特定の山鳥の尾を矢にするようにとのお告げがあった。これを聞いた弥助は山鳥を探したが見つけられず、落ち込んでいると嫁が山鳥の尾を持ってきた。実は嫁は山鳥の化身であり、尾を渡した後に消息を断った。この後、田村麻呂は山鳥の尾で作った矢を使って八面大王を討ち取ったという。

鳶と烏の岩の伝説(南佐久郡北相木村)
京の岩(南佐久郡)の入口の岩穴には鳶(トビ)と烏(カラス)のような形の岩がある。この岩には「昔、坂上田村麿が鳶尾三郎という武将の菩提を弔う場所を探していた時に鳶と烏が飛んできて、田村麿を誘い込むようにこの岩穴に飛び込んで石になってしまった」という伝説がある。この岩穴を「とび穴」ともいい、右が「烏」、左が「鳶」なのだという。

名九鬼(東筑摩郡明科町)
昔、物見岩に棲んでいた鬼が坂上田村麻呂に弓矢を射られて逃げ出し、付近の人々に助けを求めた。これにより「名九鬼」という地名が起こったという。

もみじ鬼人(東筑摩郡明科町)
今の東筑摩郡辺りにもみじ鬼人と八面大王という夫婦の鬼が棲んでいたが仲は悪かったという。ある時、八面大王が坂上田村麻呂に退治され、後にもみじ鬼人も退治された。田村麻呂はもみじ鬼人に大変苦戦したといわれている。

愛知県


田村麻呂の大鰻退治(宝飯郡音羽町)
昔、池に棲む大鰻が人々を喰うので、地元民や旅人を恐れさせていた。ある時、坂上田村麻呂が この大鰻を退治したが、後に池の水を飲んだ人が次々に死んでいったので、池を埋め立てて祠を建てて祀ったという。

三重県


鈴鹿山の鬼(鈴鹿山)
鈴鹿山は坂上田村麻呂の妻の鈴鹿御前が住んでいたとされる場所で、古くから交通の要衝であったため、鈴鹿峠には鬼や盗賊に関する伝説が多く残されている。鈴鹿の民話によれば「立烏帽子討伐の勅命を受けた坂上田村麻呂が立烏帽子との戦の中で意気投合して夫婦となり、協力して様々な鬼神を討った。二人が没した後に鈴鹿峠の里人が立烏帽子を鈴鹿御前として祀り、田村麻呂を田村堂に祀った」とされている。なお、鈴鹿峠には片山神社(鈴鹿大明神)があり、西麓には田村神社(滋賀県甲賀市)が祀られている。

立烏帽子の伝説(鈴鹿山)
坂上田村麿は勅命によって鈴鹿山で鬼を討ったという。立烏帽子は坂上田村麿の妻を奪うが、清水寺の観音の霊験によって倒されたという。

立烏帽子の伝説(亀山市)
鈴鹿山の女山賊であった立烏帽子は大変美しい女で鈴鹿御前とも呼ばれていた。立烏帽子は、鈴鹿山の山賊の頭の悪路王の妻であったが、勅命を受けて討伐にやって来た坂上田村麻呂と戦った際に田村麻呂を好いてしまい、田村麻呂に寝返って二人で協力して悪路王を討ったという。

節句の蓬と薄の由来(熊野市)
坂上田村麻呂は、鬼ヶ城の鬼の目を蓬(よもぎ)と薄(すすき)の矢で射って倒した。これにより、節句に蓬と薄を屋根に投げるようになったという。

金平鹿の伝説(熊野市)
平城天皇の頃、紀伊国の鬼岩窟に鬼神が棲み着いて郷民を悩ませていた。鈴鹿山の鬼神を退治した坂上田村丸が紀伊国の鬼の話を聞いて討伐を決意し、海路を進みニ木島を経由して鬼岩窟に近づいた。そこで、鬼の大将の金平鹿(こんへいか)は手下を集めて食糧を集めて岩窟に籠もり石戸で入口を封じた。これにより、田村丸が攻めあぐねていると、沖の島上に弓矢を携えた童子が現れて田村丸に手招きをした。

田村丸が畏まって童子に近づくと童子が共に舞おうと言うので、船を並べて舞台を作って皆で舞い遊んだ。その妙な調べを怪しんだ金平鹿は、石戸を少し開けて外の様子を覗いてみると、田村丸は童子から授かった弓矢を放ち、金平鹿の左眼を射抜いた。そこで、800もの手下の鬼が飛び出して一斉に襲いかかったが、田村丸の軍勢は1000もの弓矢で迎え撃ったので、鬼どもは尽く倒され、千手観音の化身であった童子は光を放って飛び去ったという。

多娥丸の伝説(熊野市)
桓武天皇の御代、紀伊国の多娥丸(たがまる)という海賊が居り、海を散々荒らし回っていたので鬼と呼ばれて恐れられていた。そこで天皇は征夷大将軍の坂上田村麻呂に多娥丸討伐の勅命を下した。田村麻呂が紀伊国に入ると、烏帽子山に大馬権現の化身の天女が現れて鬼の隠れ家(鬼ヶ城)の場所を教えたが、そこには岩が厳しく聳え、波も激しかったのでとても立ち入ることができず、多娥丸らも田村麻呂が討伐に来たのを知って隠れ家に食糧を持ち込んで入口を閉ざしてしまった。

田村麻呂が多娥丸と戦うこともできずに困っていると、沖の魔見ヶ島に童子が現れて、舞い踊ったり、歌を歌い始めたので、田村麻呂の軍勢も加わって大騒ぎすると、怪しんだ多娥丸が入口の扉を少し開けて外の様子を覗いた。その時、田村麻呂がすかさず神通の一矢を放ったので、一撃で多娥丸を仕留めることができ、こうして海賊どもは退治された。この後、童子は光を放って北の峰に飛び去ったので、田村麻呂が後を追っていくと、紫電が棚引き芳香に満ちた洞窟が見つかったので、そこに守仏の千手観音を安置したという。

四鬼の窟伝説(熊野市)
昔、四鬼の窟に棲み着いた四鬼が村の子供をさらって人々を恐れさせた。そこで、田村将軍が鬼ヶ城の鬼(金平鹿)を滅ぼしてから、尾呂志の鬼も退治しようとやってきて、村人に四鬼の住処を尋ねると、一同は弓に弦を張り鏃と刀を研いで戦の準備を整えた。

田村将軍が鬼の住処に向かうと、鬼どもは大きな岩の上であぐらをかいて軍勢を見つめて「我らを退治しようとは片腹痛い、射れるものなら射ってみよ」と大声を張り上げたので、田村将軍は軍勢に突撃の号令を発した。最初は勢いよく戦った鬼どもだったが、軍勢の勢いに次第に疲弊して、やがて棍棒を引きずりながら逃げていった。そこで田村将軍が追い詰めて鬼の首を刎ねたが、その首は宙に飛び上がって田村将軍めがけて飛びかかってきた。その時、田村将軍は素早く身をかわしたので、鬼の首は木の根に噛み付くことになったという。

この後、他の三鬼も全て倒し、田村将軍はめでたく四鬼を退治した。それから田村将軍が四鬼の窟に入っていくと、奥の方で泣き声が聞こえるので、そこに近づいてみると、村からさらわれた子どもたちが見つかったという。

関西地方


滋賀県


田村神社の由緒(甲賀市)
滋賀県甲賀市の田村神社の本殿は、嵯峨天皇の御代に鈴鹿峠に出没して旅人を悩ませていた悪鬼を坂上田村麻呂が平定した際に「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀れ」と言って矢を放ち、矢の落ちたところに本殿を建てさせたといわれている。

田村麻呂の没した翌年である弘仁3年(812年)の正月に、嵯峨天皇の勅命によって田村麻呂を祀る祭壇が設けられたが、この年は不作続きで疫病も流行したので、勅命によって田村麻呂の霊験を以って厄除の大祈祷が行われ、これによって災厄を逃れられたという。こうしたことから、当社では田村麻呂は厄除の大神、あるいは交通安全の神として崇敬されているという。

櫟野寺の縁起(甲賀市)
延暦21年(802年)、坂上田村麻呂が蝦夷討伐に際して当寺の十一面観音を参詣し、それから出陣したことで蝦夷を平定できた。これにより、田村麻呂は当寺を祈願寺とし、大同元年(806年)に七堂伽藍を建立し、自ら等身の毘沙門天像を彫刻し、家来に命じて相撲を奉納したという。

北向岩屋十一面観音(甲賀市)
坂上田村麻呂が大嶽丸を討伐の際、繖山御嶺の島帽子岩窟内に十一面観世音の石像を安置して祈願したと伝えられている。

善勝寺(甲賀市)
坂上田村麻呂は繖山の岩窟に十一面観音を安置して戦勝を祈願した。それから大嶽丸を倒した後、田村麻呂は当地に戻ってきて釈善寺を再興した。その時に戦勝にちなんで「善く勝った」ということから寺名を善勝寺へと改めた。なお、当寺の境内には田村麻呂が大嶽丸の首を埋めたという鬼塚がある。

京都府


仏神の加勢(京都市東山区)
田村丸が蝦夷征討に際して自ら仏殿を建てて本尊に祈ったところ、戦場に観世音菩薩・毘沙門天・地蔵菩薩が現れて敵を悉く退治した。そこで田村丸は宣旨を受けて当地に伽藍を建立し、数箇所の寺領を寄せた。それから大同2年(807年)にさらに再興して寺号を清水寺に改めたという。

和歌山県


田村麿の蜘蛛退治(那賀郡貴志川町)
白岩谷の岩に付いた斑点は、坂上田村麿が蜘蛛という賊を退治した時に付いた血の跡だという。なお、田村麿は「カタメ竹で弓矢を造って戦えば蜘蛛を退治できる」という霊告を以って退治したという。

中国地方


岡山県


由加山の阿久良王(倉敷~玉野市)
由加山には阿久良王という妖鬼が棲んでおり、これを退治しに来た坂上田村麻呂は神宮寺八幡院で7日7夜の祈願をしたことで勝利できたという。また、
金甲山は田村麻呂が阿久良王退治の前に戦勝祈願として金の甲を山頂付近に埋めたという伝承が由来だとされ、この金の甲は戦の後に麓の円通寺の竜王に御礼として奉納されたという。