甲斐の黒駒の伝説
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『扶桑略記』
推古天皇6年(598年)4月、聖徳太子は諸国から良馬を献上させ、その数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に飼養させた。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国に向かい、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日で都へ帰還したという。
『聖徳太子伝暦』
推古天皇6年(598年)、聖徳太子は良馬を求めて諸国から馬を集めた。太子は甲斐国から献上された数百頭の黒駒の中から四脚の白いものを見つけて神馬とし、他の馬はすべて返して、舎人の調子麿に飼養させた。この後、太子は甲斐の黒駒に試乗して浮雲の如く東に去っていった。従者はその様子を見て「太子は舎人の調使麿を黒駒に乗せて、直ちに雲の中に入っていった」と語った。また、それを見た者は皆 驚いたという。
3日後、太子が轡を廻して帰って来ると、調子麿は「黒駒は雲を踏み、霧を凌いで直ちに富士の嶽の上に至り、巡って次に信濃に至った。その時の黒駒は飛ぶこと雷電のようであり、三越を経て今帰って来た。太子は黒駒について"疲れを忘れて私に従う真の忠士である"と評価していた」とその様子を語って聞かせた。また、太子は「まるで陸地のように空を踏んで走るが、確かに脚の下に山があるのを見た」と語った。このように二人はは甲斐の黒駒をとても高く評価した。
推古天皇13年(605年)、天皇は常に太子の妙説を納め、遂に仏法の神秘性を理解するに至った。そこで大誓願を発願して、仏の職人・鞍作止利に銅仏と縫仏を造るように命じた。冬に太子が斑鳩宮に帰ること伝えると、天皇は涙を流して太子を引きとめた。太子は天皇に感謝して「別宅に住んでも天皇から心は離れません」と伝えた。以後、太子は毎朝黒駒に乗って来朝し、政務が終わるとすぐに斑鳩に帰るようになった。しかし、日増しに飛鳥に居る時間が短くなったので、人々は皆 怪しんだという。
推古天皇18年(610年)、太子が黒駒に乗って小墾田の宮に参じた際、誤ってこれを踏んでしまった。その時に太子は少し驚いて、斑鳩宮へ還った。これ以来、黒駒は草を噛むことができず、水も飲まず、両耳も垂れてしまった。その様子は、両目が合って過ぎたことを後悔している様であった。それを聞いた太子は使者を遣わして、黒駒に草を食べ水を飲むように伝えた。すると、黒駒は目を開いて水や草を摂るようになり、以前の姿に戻ったという。
甲斐の民話
飛鳥時代、甲斐の国のある農家で一匹の牝馬が飼われていた。
ある年、その馬が子を産んだものの、産まれた子馬は母馬の乳を飲もうとせず、代わりに庭にあった瓢(ひさご)の木の葉を食べはじめた。すると、不思議なことに瓢の木の葉は冬になっても枯れず、常に青々としていたという。
ついに、瓢の木の茎をも食べ尽くした子馬は大きく育ち、やがて一つの瓢箪をくわえて帰ってきた。この馬が後の"甲斐の黒駒"であり、その瓢箪は推古帝に献上されたという。
三河の民話
昔、豊根の御大尽の家には一頭の大変見事な黒駒が飼われており、御大尽は好物の酒を毎日のように与えていた。そんな黒駒の噂を聞いた隣国の殿様は、黒駒を手に入れようと宝物を持って御大尽と交渉したが、御大尽はどんな宝であっても了承しようとしなかった。この時、二人のやり取りを見ていた黒駒がいきり立ち、宝物の山を蹴散らして、とうとう屋敷の外に逃げ出してしまった。
御大尽は使用人に輿を担がせて急いで黒駒の後を追い、その道中で行方を尋ねると「黒いものが凄い勢いで御園の方から長畑の方に飛んで来て、あっという間に西へ飛んでいった」や「黒いものが鴨川を越えて飛んでいった」といった話を聞いたので、それは黒駒に間違いないと思い、御大尽一行は夜も眠らずに西へと急いで向かった。
一行が鞍掛山の麓に差し掛かった時、そこで出会ったキコリが「山の洞窟の中から恐ろしい唸り声がする」というので、御大尽はそのキコリを雇って、洞窟から黒駒をおびき出して捕まえることにした。そこで御大尽が洞窟の入口に好物の酒の入った樽を置いて待っていると、そのうち洞窟の中から黒駒が姿を現して酒を飲み始めた。その時にキコリが縄を掛けて捕えたが、黒駒は恐ろしい力で縄を引きちぎり、再び姿をくらましてしまった。この時、御大尽一行は疲れ果てていたので、その日はその洞窟で休むことにした。
翌日の朝方、蹄の足音で御大尽が目を覚ますと、崖の頂に黒駒が鬣をなびかせて立っているのが見えた。その身体は朝日に照らされて金色に輝き、この世のものとは思えないような不思議な姿だった。そこで、御大尽が崖に登って捕まえようとすると、黒駒は一声高く嘶き、岩を蹴って崖から空へと飛び上がった。そして、黒駒は空を駆けるうちに龍の姿に変わっていった。
そこで一行は「龍神様だ」と言って地面にひれ伏すと、龍は雲を呼び、嵐をおこしながら谷を越えて、竜頭山の奥へと消えていったという。なお、黒駒がいた崖の大岩には「黒駒が踏ん張った蹄跡」と「水を飲んだ窪みの跡」がくっきりと残っていたことから「馬桶岩」と呼ばれるようになり、その窪みの水はどんな日照であっても枯れなかったといわれている。
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