藤原俊仁 ― 坂上田村丸の伝説上の父 ―
藤原俊仁(ふじわらのとしひと)とは、御伽草子に登場する伝説上の人物のこと。
将軍の父と大蛇の化身の母を持ち、近江国の大蛇や陸奥国の悪路王を退治したとされている。
また、俊仁が陸奥国で賤女と一夜の契りを交わしたことで坂上田村丸が生まれたとされる。
基本情報
概要
藤原俊仁は、御伽草子『田村の草子』や『鈴鹿の草子』に登場する伝説上の人物で、平安前期の武将・藤原利仁がモデルになったといわれている。
御伽草子によれば、大蛇の母の胎内に3年留まってから産まれて日龍丸と名付けられた。その後、3歳で父と死別するが、7歳で近江国の大蛇討伐の宣旨を受け、これを倒したことで将軍に任じられて名を俊仁と改める。
その後、天下の美女と仰がれた照日御前と結ばれて2人の娘を儲けるが、後に照日御前が陸奥国の悪路王という鬼に浚われてしまう。そこで、妻の行方を追って陸奥国に向かい、悪路王を倒して妻を取り返した。
その後、死ぬ前に後世に名を残せるような武功を挙げようと、唐土侵攻を提案し、毘沙門天の力を借りて唐土で不動明王を戦った。俊仁は優勢だったが、不動明王は自分が負ければ仏法が廃れてしまうということで鞍馬の毘沙門天の元に向かい、自分が日本を守護するので俊仁の力を奪うように交渉すると、毘沙門天は了承して俊仁から力を奪った。ここで俊仁は首を落とされて非業の死を遂げたとされる。
なお、俊仁が悪路王を退治しようと陸奥国に向かった際、途中で田村郷の賤女と一夜の契りを交わした。そこで、もし御子ができたなら これを印に訪ねよと1本の鏑矢を与えた。後に賤女は懐妊し、そこで産まれたのが坂上田村丸(伝説上の人物)だとされる。
ちなみに、御伽草子の『田村の草子』と『鈴鹿の草子』の内容にはいくつかの違いがあるが、俊仁に関する話は似たようなものになっている。また、俊仁は『田村三代記』には登場していないものの、これに登場する田村利光と同じような立場で、話の内容も似たようなものになっている。
データ
種 別 | 伝説の人物 |
---|---|
資 料 | 『田村の草子』『鈴鹿の草子』 |
年 代 | 平安時代 |
備 考 | 伝説上の坂上田村丸の父 |
御伽草子による俊仁伝説のあらすじ
50歳を超えても跡取がいなかったことを憂いた俊祐将軍が妻子を求めて上洛したところ、嵯峨野で一人で和歌を詠んでいる美女と出会い、意気投合して契りを結んだ。そこで女が懐妊し、出産までに3年かかると言ったので、俊祐は出産に合わせて壮麗な産屋を建てたが、女は「私が産屋に入ってから7日間は人を近づけてはならない」と言う。
しかし、俊祐は待ち遠しさのあまり7日目に産屋を覗いてしまうと、そこには巨大な大蛇が御子を頭に乗せて遊ばせている様子が見えた。8日目に御子を抱いて産屋を出た女は「もし産屋を覗かれずに8日目を迎えたならば御子は日本の主にしてやれるはずだったが、7日目に覗かれてしまったので叶わなくなった。だが、天下の大将軍となるだろうと」告げて、御子を日龍丸(にちりゅうまる)と名付け、益田ヶ池に棲む大蛇という自らの正体を明かして去ってしまった。
日龍丸が3歳の時に父・俊祐と死別し、7歳の時に帝から「近江国の見馴川に現れた大蛇を退治せよ」という宣旨を受けた。そこで、乳母から家宝の「角の槻弓」と「神通の鏑矢」を授かり、軍勢を率いて見馴川に向かった。大蛇は日龍丸の伯父と名乗ったが、刃向かえば微塵にするというので、日龍丸は家宝の弓矢を以って大蛇を討った。この後、大蛇の首を取り、雲に乗って都に帰ると、日龍丸は将軍に任じられて 名を俊仁(としひと)に改めた。
俊仁が17歳の時、都で天下の美女として評判だった照日御前を見初めて契りを結んだ。これに嫉妬した帝は難癖をつけて俊仁を伊豆国に流刑にすると、俊仁は憤慨して伊豆国に向かう途中の瀬田橋にて、橋板を踏み鳴らしながら以前に見馴川で討った大蛇の魂魄に「都に向かって思うがままに暴れよ」と呼びかけた。
すると、それから都で怪異が起こるようになったので、帝が天文博士を召して占わせたところ「俊仁を都に戻さなければ、怪異は鎮まらないだろう」という結果が出た。これによって俊仁は都に復帰することを許され、また瀬田橋を通った際に「私は都に帰るので悪事を止めよ」と言うと、それ以来 怪異は起こらなくなったという。
ある時、俊仁が参内していたところ、土風が吹き上がって照日御前を天に連れ去ってしまった。これに悲観した俊仁は夢で照日御前と逢えるように願いながら床に就くと、夢の中に3人の童子が現れて 俊仁の情けない姿を嘲笑しながら天狗を尋ねるように助言した。そこで、俊仁が愛宕山の恐惶坊を尋ねると、そこで帰り道を行けば分かると教えられた。そこで、急いで帰り横たわる大木の橋を踏み鳴して答えを問うと、大木が動いて大蛇の正体を現した。
その大蛇は俊仁の母の妹と名乗り、妻を奪ったものは陸奥国の高山に棲む悪路王という鬼だと知らせた。また、俊仁の母が人界の縁に引かれて成仏できないというので、俊仁は哀れに思って1万部の法華経を詠み、1000人の僧を呼んで供養した。それから俊仁は鞍馬に行って37日間の参籠を終えると、毘沙門天から剣を賜った。
その頃、都では二条大将軍の姫君や三条中納言の奥方など妻子を失った者が数多く居たので、俊仁は彼らを連れて陸奥国に出発した。その途中で陸奥国の初瀬郡田村郷に着いた時、俊仁は土地の賤女と一夜の契りを交わして「忘れ形見が居れば、これを印に都を尋ねよ」と1本の鏑矢を渡した。
それから悪路王の居城に向かうと正面の守りが厳重だったので、裏口に回ってみると一人の少女が泣いているのが見えた。俊仁が素性を尋ねてみると、少女は美濃前司の娘で捕われて3年になり、今は馬飼を任されているという。また、今は悪路王は越前国に出かけているというので、俊仁が城への入り方を問うと、いつも地獄王という龍馬に乗って入っていると答えた。そこで、俊仁が地獄王に跨ると城から離れて北の方に飛んでいこうとするので、俊仁は「従わねば命はないぞ」と脅すと、恐れて居城に向かっていった。
俊仁が居城に着くと、城門が固く閉ざされていたので、仏神に祈念したところで門が開けることができた。そこで城内に侵入すると大勢の女が見つかり、別の場所で照日御前も見つけた。そこから城内を見回ってみると、鮨にされた人間の入った桶や稚児の串刺しなど、おぞましいものが置かれていた。
しばらくすると、空が曇り始め、雷鳴が鳴り響き、やがて悪路王が帰ってきた。悪路王は何者かが侵入したことに気づき、手下の鬼どもと共に目を光らせて睨みながら探したが、その時に俊仁の頭上に日月現れて それが鬼どもを睨みつけると、睨み負けた鬼どもは血の涙を流した。そこで俊仁が毘沙門天の剣を投げつけると、次々に鬼どもの首を落としていった。こうして悪路王を倒すと、俊仁は捕われた人々を救い出して都に帰っていった。
田村郷で俊仁と一夜の契りを結んだ賤女は懐妊しており、やがて男児を出産して臥(または臥丸)と名付けた。10歳になった臥は、自分に父が居ないことを案じて母に尋ねてみると、母は俊仁のことをありのままに語り、形見の鏑矢を見せた。すると、臥は父に逢いに行くことを決意して上洛することにした。
長い旅路を経て都に着くと、臥は俊仁の屋敷前で休憩することにした。その時、庭で蹴鞠をしていた俊仁が誤って鞠を屋敷の外に蹴り出してしまった。臥は鞠を受けると、思いのままに蹴り遊んで また屋敷の中に蹴り返した。この様子を見ていた俊仁は只者では無いと思って素性を問うと、臥は黙って形見の鏑矢を差し出した。そこで俊仁は我が子だと気付き、喜んで様々に饗した後に田村丸という名を与えた。その後、田村丸が元服を迎えた時に稲瀬五郎坂上俊宗と名を改めた。
俊仁が55歳になった時に、末代までに名を残せるような武功を挙げようと思って唐土侵攻を計画した。これを時の関白に相談すると、許可が下りて50万騎の軍兵と3000隻の軍船が与えられた。そこで俊仁が出立の印として神通の鏑矢を射ると、それは7日7夜に渡って鳴り響いたという。
一方、唐土では恵果和尚が不動明王、矜羯羅童子、制多迦童子を率いて俊仁の侵攻を妨げた。そこで、不動明王が降魔の利剣を振ると、俊仁も神通の剣を以って戦った。その戦いでは俊仁が優勢で、不動明王は次第に後退していった。困った不動明王は金剛童子を日本に遣わせて、鞍馬の毘沙門天に俊仁に力を貸すのを止めるように説得したが拒まれたので、今度は自ら向かって「我が日本を敵だと思えない。しかし、我が俊仁に敗れれば仏法を信じる者が居なくなり、やがて邪道の鬼神が蔓延って衆生を悩ませるだろう。もし俊仁から力を奪うなら、我は俊仁に代わって日本を護り、仏法繁盛の国としよう」と誓うと、毘沙門天は了承して俊仁に力を与えるのを止めた。
すると、俊仁はたちまち力を失い、神通の剣は3つに折れた。そして、不動明王の降魔の利剣によって ついに討ち取られしまった。この後、俊仁の軍勢は激しい波風によって壊滅したが、俊仁の遺体を積んだ船は辛うじて博多の浦にたどり着いた。この知らせを聞いた田村丸は急いで博多に下り、そこで遺体を検めると泣く泣く都に帰っていったという。
関連資料
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