珍奇ノート:泉小太郎の伝説



泉小太郎伝説(松本市の伝説)


昔、松本平・安曇平は山々の沢から落ちる水を湛えた湖だった。この湖には犀龍(さいりゅう)が棲んでおり、湖の東の高梨の池に住む白竜王(はくりゅうおう)と結ばれて、後に鉢伏山で男児を儲けた。その男児は日光泉小太郎と名付けられ、放光寺山あたりで立派に成長した。

しかし、母の犀龍は次第に自分の姿を恥じるようになり、やがて湖の底に隠れてしまった。小太郎は隠れた母の行方を探し回り、熊倉下田の尾入沢でやっと逢うことができた。そこで犀龍は「私は諏訪大明神の化身で、氏子を栄えさせようと姿を変えているのです。お前は湖を突き破り、人の住める平地を作りなさい」と言うと小太郎を背中に乗せた。よって、この地は犀乗沢(さいのりさわ)と呼ばれるようになった。

それから二人は山清路の巨岩を突き破り、さらに下流の水内の橋の下の岩山を突き破り、千曲川の川筋から越後の海まで乗り込んでいった。こうして安曇平に広大な土地ができたのである。よって、犀乗沢から千曲川が落ち合うところまでを犀川と呼ぶようになった。その後、小太郎は有明の里で暮らし、子孫は大いに栄えたという。

『信府統記』第十七「筑摩・安曇両郡旧俗伝」


我が信濃国の中で、昔から今日に至るまで その事跡を見聞きしたことは、この「信府統記」の「郡境諸城の記」などに載せたが、大昔の歴史は そのいわれがハッキリしないこともあり、きちんと書くことは難しい。よって、しばし筆を取るのと止めたが、ここにまた筑摩(つかま)・安曇(あずみ)の両郡において、昔から伝わる風俗や習慣の記録は少なくない。それらの話の詳細は分からないことも多いが、これも遠く過ぎ去った時代のことであるので、現在を知る一端として捨て置けない。よって、別に集めて一巻とした次第である。信じて昔を好む意味に近いだろう。

一つ、大昔、郡の名も定まらず、ましてら郷村も開けて無かった頃、この辺りでは山中にだけ人が住み、この地を有明の里と言った。有明山という大きな山の麓だったから この名が付いた。有明山は今(江戸中期)の松川組である。有明山の名を「戸放力嶽」ともいう。詳しく言えば、大昔に日の神(アマテラス)が岩戸に籠った時、天地が真っ暗闇になってしまったので、手力雄命(タヂカラオ)が岩戸を取り上げて投げたところ、この岩戸が有明の場所に落ちた。それから天下が明るくなったので、この山を有明山とも、戸放力嶽とも言うのである。また、鳥放力嶽とも言う。

詳しく言えば、この山に鶏に似た鳥が居て、時を作るからとか、また別説によれば、この山は月の頃(満月の日の前後数日)には陰もなく照らすために有明山ともいうと書かれている。人皇12代景行天皇の12年までは、この辺りの平地は皆 山々の沢から落ちる水が集まって湖となった。ここには犀竜(さいりゅう)が棲んでいた。また、ここから東の高梨という所に白竜王(はくりゅうおう)という者がいて、犀竜と交わって一人の子を産んだ。その子は八峯瀬山で誕生し、日光泉小太郎と言った。放光寺山の辺りで成長し、後に母の犀竜は自らの姿を恥じて湖水に潜って身を隠した。

小太郎が隠れた母の行方を探していたところ、熊倉下田の奥にある尾入沢という所で母と逢うことができた。母の犀竜が「私は諏訪大明神の武南方富命(タケミナカタ)の変身で、氏子たちを繁昌させようとして姿を変えたのです。小太郎よ、私の背に乗りなさい。この湖を突き破って水を下流に落とし、平らな陸地として人の住める里にしましょう」と教えて小太郎を背に乗せ、尾入沢から今の犀乗沢の三清地というところにある大岩を突き破り、また水内の橋下を突き破り、千曲川を流れ下って越後国まで乗り込んでいった。よって、この場所を「乗タリ」あるいは「犀川」という。

その後、犀竜は白竜王を尋ねて坂木の横吹という所の岩穴に入って、小太郎は有明の里に帰った。今の池田組十日市場の川会という所に棲んで、子孫は繁昌した。何年か経って白竜王と犀竜はともに川会に来て対面した。白竜王は「私は日輪の精霊、すなわち大日如来の化身であり、犀竜と共に今は松川組の一本木村の西の山にある仏崎という所の岩穴に入って隠れていた」という。

それから何年か経った後に小太郎が「私は八峯瀬権現の再誕である。この里の繁栄を護ろうとして、また仏崎の岩穴に隠れた。後にその場所に川会大明神の社を建てたのは、この霊神を祀るためである」と言った。今はこの社は無い。湖の水が流れ出て、平らな陸地となってから、田を開き、人々が住んで暮らすようになり、次第に郷村ができていった。湖水がいっぱいだった時には、山から山へ船で往来したため、山家組に船付という所がある。同じく船を繋ぎ止めておく石などもある。

一説によれば、信濃国の十二郡の中でも筑摩と安曇ノの両郡は果てしなく広い海原だった。中山の崎から湖が入るので潮崎といい、その潮は伊奈(伊那)へと流れる。塩尻の名もここから始まった。深瀬というの、その湖の中にある川筋の深い瀬のある所とか、また、山家の名は皆が山の上に住んでいるために付いた名である。ここに船を寄せたので今は船着と呼ばれたとされ、船を繋いだ石も今にもある。釣りを生業として暮らしている。

諸神は憐れんで、中でも鉢伏(今は八峯瀬)という山の権現が人倫として現れて、傍らの丸山に住むようになった。そこに不思議な泉が湧き出る。その泉の味は酒のようで、人々の飢えを助け、疲れを養っている。まさに不老不死の泉とも言われるほどで、その地の人々は大変喜んでいる。この権現の子を泉小次郎という。この子は生まれながらに普通の人ではなく、岩壁を駆け巡り、水中でも自由自在で、この地を平らな陸地にするために海中に入って点検したところ、一つの山を突き破れば、必ず水が流れ下って丘となるだろうと考えた。

しかし、それは人間の力ではできないことなので、天神地祇に祈っていたところ、大雨が降って水が溢れんばかりになり、山の上を超える程に水が溢れた。その時、犀(さい)が一匹出現したので、小次郎はこの犀に乗って山を突き破った。他所の地域の古くから巨霊といわれた山も突き破ったこともあるから簡単なことだった。犀に乗って水は広い世界へ流れ出ていった。この犀を神に祝い、今の出川町の辺りにある犀口水引大明神がこれである。ここの溢れんばかりの海水は、越後へ流れ落ちて平らな陸地となった(以下略)。