珍奇ノート:弥五郎どんの伝説



弥五郎どんの巨人伝説(宮崎県)


その昔、宮崎の南方に 弥五郎どん という大きな人がいた。弥五郎どんは、山に腰掛けて海で顔を洗うほどの大きな身体を持ち、その足跡は谷や池になったともいわれている。

この弥五郎どんは心優しい人だったので、村人に助けを求められると快く了承し、大雨で川の土手が壊れてしまった時には山から大岩を運んできて壊れたところを直してやったという。

だが、悪戯好きでもあったので、大岩で川水をせき止めると、村人に「俺の草鞋を百足作ってくれたなら、この岩を取ってやる」という無理難題を押し付けたりしたが、村人たちは「いつものわがままが始まった」と笑ってやり過ごしたという。

また、ある時には「山に登って雷様をかき混ぜて、二度と鳴らないようにしてくれる」と言って村人たちを驚かせたという。このように、村人たちは弥五郎どんに助けられたり、驚かされたりしながら、仲良く暮らしていたという。

隼人の乱


養老4年(720年)、太宰府から朝廷に「大隅国守の陽侯麻呂が殺された」との報告が伝えられ、これによって大伴旅人が隼人征討に派遣された。この時に朝廷軍と争った隼人の首長が大人弥五郎と伝えられている。

朝廷方は戦の神と崇められた八幡神の加護を得て隼人を征したが、この戦いで多くの殺生をしたので、八幡神は放生会を営むように託宣したという。この際に隼人の首長を象った大きな人形を作らせて、その怨霊を鎮めたといわれている。

また、この後に隼人の怨霊がニナとなって農作物を荒らしたため、放生会でニナを放つようになったともいわれる。

円野神社の案内板(宮崎県都城市)


弥五郎どんは隼人族の首長で、昔 九州が西海道といわれていた時代に南九州は日向と呼ばれていた。

隼人族は昔から日向に住んでいたが、奈良時代のはじめに大和朝廷は養老律令を作って支配の強化を図り、日向は薩摩国と大隅国に分置された。それまでは首長を中心に共同体を作っていた隼人にとって、中央から派遣された官僚に支配されることは大きな屈辱であったため、これに一族を挙げて反抗した。

養老4年(720年)、大隅・日向の隼人らは初代大隅国守を殺害して反乱を起こしたが、朝廷側の圧倒的な兵力に敗れ去った。隼人族の首長である弥五郎どんをはじめ犠牲になった隼人は1400人にのぼった。朝廷は滅ぼした隼人の怨霊を恐れて放生会を全国で行い、その霊を慰めた。

この放生会と御神幸祭が一体となったのが、現在 南九州の八幡神社で行われている弥五郎どん祭りである。

枝宮神社の由緒(鹿児島県霧島市)


『三国名勝図会』や『薩隅日地理纂考』によれば、当社には大人彌五郎 別名 川上梟帥の四肢が葬られたと伝えられており、野口郷の鎮守の神となり、明治5年(1872年)に村社に列せられた云々。