珍奇ノート:鈴鹿御前の伝説



資料の伝説


『弘長元年十二月九日公卿勅使記』


伊勢国鈴鹿山の兇徒の立つ所に西山口の加治□坂がある。

昔、立烏帽子が居た所の辺りで、この立烏帽子が崇めた神社には鈴鹿姫が鎮座している。路頭の北の辺りである。

『耕雲紀行』


昔、鈴鹿山で鈴鹿姫が勇力を誇ってこの国を悩ませた。田村丸が勅命を受けて誅伐すると、鈴鹿姫の軍勢は敗れて着ていた立烏帽子を山に投げた。それは石となって今もあり、麓に社を建てて巫女らがこれを祀った。

奈良絵本『すずか』


鈴鹿の立烏帽子は鈴鹿の権現といわれ、東海道の守護神となって往来の旅人の身に代わって守り、この道を行く人はその身の災難を免れるという。

御伽草子『田村の草子』



ある時、伊勢国の鈴鹿山に棲む大嶽丸という鬼神が道を行き交う人を襲ったので、人々は恐れて山を渡ろうとしなくなり、この方面からの貢物が途絶えてしまった。これを知った帝は田村丸に鬼神討伐の宣旨を下して3万騎ほどの軍勢を与えた。田村丸が軍勢を率いて鈴鹿山に向かうと、大嶽丸は飛行自在の者だったので、官軍が攻めてくることを知って鈴鹿山の峰に黒雲を立ち上らせ、火の雨を降らせたり、雷電や大風を起こして攻められないようにした。

これにより、田村丸は長い間 大嶽丸を攻めあぐねていたが、同じ頃に鈴鹿山に鈴鹿御前という天女が天降った。大嶽丸は鈴鹿御前に心を奪われ、童子や殿上人に化けるなど様々な謀を巡らせて、なんとかして一夜の契りを結ぼうとしたが、鈴鹿御前は通力によって心を見抜いていたので、全く応じようとしなかった。

一方、田村丸は大嶽丸の居場所を見つけようと諸天に祈ると、ある夜に夢の中に老人が現れて"鬼神を従えたければ鈴鹿御前を尋ねよ"という旨の助言を与えたので、兵を都に帰して一人で鈴鹿山に入っていった。田村丸が鈴鹿山に着くと既に夕暮れ時だったので、草枕に頭を乗せて寝る準備をしていたところ、そこに28歳ほどの女が現れた。その姿は、髪に玉の簪(かんざし)を挿し、金銀の瓔珞(ようらく)を掛け、唐錦の水干に紅の袴を履いているというものだった。

そこで、田村丸は"きっと大嶽丸が女に化けて来たのだろう"と思い、膝下に剣を隠して女の方を向くと、女は"目に見えぬ 鬼の住処を 知るべくは 我がある方に しばし留まれ"という和歌を詠んでかき消すように失せていった。田村丸はこれを神の御告げと捕えて諸神に伏し拝むと、和歌に従って女の行方を探した。しかし、一向に見つからず、田村丸は探しているうちに女に恋心を抱いてしまい、鬼神の住処を探すというより、女に逢いたいという目的で探すようになった。

田村丸は恋心によって鬼神討伐への意志が乱されるようになったので、大嶽丸の謀と疑って神に"女のことを忘れさせたまえ"を祈ったが、結局忘れることができずに捜索が進展しなかった。すると、ある時に目の前に女が現れて"早く私のもとへ"と館の中に誘ったので、田村丸は女と共に館に入り比翼の契りを結ぶことになった。それから、しばらくの間 一緒に過ごすようになり、そこで田村丸に素性を明かし、田村丸に力添えをするために天上から仮の身で現れたと語った。また、大嶽丸に言い寄られていることを伝え、自ら謀って容易く討たせようと言うので、田村丸は安心して鈴鹿御前を頼ることにした。

この後、二人で大嶽丸の住処を目指して進んでいくと、やがて大きな岩穴に辿り着いた。そこで中を覗いてみると霞が満ちており、さらに奥に進むとそこは極楽浄土のような美しい様子で、辺りに四季の風景が見える庭があり、様々な鳥の羽根を葺いた館が立ち並び、その中には色々な財宝が並べてあり、数多の女が琵琶や琴を調べたり、碁や双六をして遊んでいた。また、さらに奥に進んでいくと、大嶽丸の住処と思われる荘厳な屋敷があり、中には多数の武具が並べられていた。

田村丸が攻めるのに良い機会だと思って鈴鹿御前に相談すると、鈴鹿御前は"大嶽丸は大通連・小通連・顕明連という3本の剣を持っているので、これを持っている間は日本が総出で立ち向かっても討つことができない。今度大嶽丸が言い寄ってきた時に謀って剣を奪うので、それまで待つように"と教えて、一旦帰ることにした。

この後、大嶽丸が美しい童子に化けて鈴鹿御前の枕元に立ち、一首の和歌を詠んだので、鈴鹿御前がこれに返歌すると、大嶽丸はとうとう返事があったと喜び、鈴鹿御前は大嶽丸の歌を褒め称えた。それから二人で語り合っていると明け方になったので、鈴鹿御前が大嶽丸と別れ際に"今、田村丸という者に言い寄られて困っているので、追い払うために剣を貸して欲しい"と頼むと、大嶽丸も田村丸に狙われていることを話して、大通連と小通連の2本の剣を置いていった。

この後、鈴鹿御前は田村丸に2本の剣を渡し、自ら大嶽丸の館に向かって酒を入れた瓶子を贈ったので、大嶽丸が手下の鬼どもに振る舞うと、皆酔っ払ってしまった。鈴鹿御前はその様子を見届けると雲に乗って彼方に隠れた。それから大嶽丸も日が暮れるまで酒宴を楽しみ、やがて鈴鹿御前を探して辺りをうろうろしていると、そこに田村丸が出ていって大嶽丸に対して名乗りを挙げた。

すると、大嶽丸は美しい童子の姿から、身の丈10丈(30.3m)ほどの鬼神に姿に身を変えて、日月のような眼光で田村丸を睨むと、田村丸に手並みの程を見せよと大声で叫んで、氷のような300本ほどの剣鉾を投げた。その時、田村丸の両脇に千手観音や多聞天が立って剣鉾を悉く打ち払ったので、大嶽丸は激怒して数千の鬼に身を変えた。そこで田村丸は騒ぐことなく神通の鏑矢を射ると、数万の矢先になって鬼神の頭に落ちかかり、多くの鬼を討った。

これに大嶽丸は盤石に身を変えて耐え忍んだが、そこで田村丸が剣を投げると大嶽丸の首を打ち落とし、これを見た眷属どもは恐れをなして悉く消え失せていった。それから田村丸は鬼どもの首を荷車に積んで都に帰り、帝にこれを差し出すと、褒美として伊賀国を賜った。その後、田村丸は鈴鹿御前と鈴鹿山で暮らすようになり、間に一人の娘を儲けた。以下略

御伽草子『鈴鹿の草子』



ある時、伊勢国の鈴鹿山に棲む立烏帽子という人の目に見えない者が人々から物品を略奪していたので、田村殿に立烏帽子討伐の宣旨が下った。田村殿は500騎ほどの軍勢を率いて鈴鹿山に登り、手分けして立烏帽子を探したが全く見つからなかったので、鈴鹿山の四方に兵を配置して山を行き交う人から鳥獣まで監視させたが、1年経っても見つからなかった。

田村殿はこのままでは恥になると思い、兵たちを都に帰して一人残って山中を探し回った。ある時、田村殿が山の清水で身体を清めて山の高所に登り、都を伏し拝みながら立烏帽子の居場所を求めて祈願すると、今まで見えなかった"こまつ原"という場所が見つかった。田村殿は神仏の加護と感謝しながら分け入っていくと、そこには大きな池があり、その池に浮かぶ島には極楽浄土を思わせるような美しい風景が見え、さらに先に進んでいくと豪華絢爛な館が建っていた。

その館の中を覗くと、そこには17歳ほどの輝くばかりの美女いた。田村殿はその美女が立烏帽子だと分かったが、あまりの美しさに争う気がなくなり、できることなら親密になりたいと思った。しかし、宣旨を受けていることもあって、まずは相手の心を試そうと、剣を抜いて立烏帽子の頭上に投げつけた。これに立烏帽子は少しも騒がずに、いつの間にかその場から消えて、側にあった琴を弾き始めた。

それから、立烏帽子は 金輪状の直垂に鎧を着け、高紐を引き締め、三代具現の小手を差し、上覧美麗の脛当てを着け、示現灯明の御刀を差し、3尺1寸の如何物造りの太刀を帯びているという噂に聞いていた正体を顕した。そして、帳台を外に投げ出して田村殿に剣を投げつけると、田村殿も剣を投げた。

すると、お互いの剣が打ち合って戦い始め、やがて田村殿の剣が打ち負けたので、その剣は黄金の鼠に変じて外に逃げ出した。それでも立烏帽子の剣に追われると、今度は7頭の鳥に変じて立烏帽子の髪に飛びかかった。そこで立烏帽子が神通力を使って身を隠したが、田村殿の剣は雉や鷹に変じて立烏帽子を追い詰めた。

すると、立烏帽子は田村殿の心を見抜いてその心中を述べ、さらに田村殿はソハヤノツルギしか持っていないが、自分は3本の剣を持っているので、田村殿を討つのは容易いと言った。それから、立烏帽子は大通連という剣を出しながら、田村殿に敵意は無いので都に帰るように言ったが、田村殿は心中を見抜いているならば帰らないことは知っているだろうと答えた。

これに立烏帽子は笑いながら田村殿の心中を全て言い当て、その上にこうして出逢ったのも運命だと言って剣を収めたので、田村殿も喜んで剣を収めた。それから二人は一緒に過ごすようになり、やがて夫婦となって一人の娘を儲けた。

その後、娘が3歳になった時に田村殿が都を恋しく思っていると、鈴鹿御前(立烏帽子)は田村殿の心中を察して「鈴鹿の立烏帽子を捕らえる策があるので、その日のために捕らえるための軍勢を用意せよ」という旨の文を記して、渡り鳥に託して都に送らせた。後にその文は内裏の総門に落とされて、大臣によって帝に届けられた。

この後、策の決行の日が近づくと、これを知った田村殿は都に帰って軍を止めようとしたが、鈴鹿御前は田村殿は天下の大将軍になるべく生まれ、自分は天上界の天女で人々を導くために示現したので、命は惜しくないと言い、田村殿に勲功を挙げさせるための策を決行することになった。

それから策の決行の日になったので、二人は神通の車で都に向かい、内裏の近くで降りた。すると、周りには数万の軍勢が移動しているのが見えた。この後、二人で帝の前に出向くと、そこで鈴鹿御前が 帝よりも位が上の天上界の天人であるという素性を明かし、それでも討つならば討つが良いと言い放つと、帝は返答をせずに見過ごした。以下略

地方の伝説


田村神社の由緒(宮城県白石市)


延暦年間(782~806年)、坂上田村麿が東征の際に悪路王や赤頭といった荒土や丹砂を塗った妖怪と戦い、鈴鹿御前の援助で討伐した。その後、地元民がその返礼として祠を建てて、田村将軍と鈴鹿神女を祀った。これが白石市の田村神社の由緒になるが、当初はそこを古将堂(越王堂)と称していたという。

立烏帽子の伝説(三重県亀山市)


鈴鹿山の女山賊であった立烏帽子は大変美しい女で鈴鹿御前とも呼ばれていた。立烏帽子は、鈴鹿山の山賊の頭の悪路王の妻であったが、勅命を受けて討伐にやって来た坂上田村麻呂と戦った際に田村麻呂を好いてしまい、田村麻呂に寝返って二人で協力して悪路王を討ったという。

鈴鹿権現の由来(三重県亀山市)


天智天皇が崩御してから8ヶ月後の672年6月24日、大和国の吉野で隠棲していた大海人皇子は甥の大友皇子を討つために軍勢を起こし、わずか20人ほどで吉野を出立した。それから宇陀から名張に到り、ここで援軍を得ると100人ほどの軍勢になり、さらに伊賀の豪族に決起を促して、有力な豪族を味方につけた。こうして軍勢を整えると、伊賀のたら野で食事を摂り、積植の山口で高市皇子の出迎えを受けた。

この後、拓殖から伊勢国の鈴鹿向かうと、鈴鹿の山中で日が暮れて闇夜で道を迷ってしまった。その時、彼方から光が見えたので その方向に進んでいくと、そこに柴を結んだ庵があり、中に老翁と老嫗が住んでいた。そこで大海人皇子がどうしてこんな場所に住んでいるのかを問うと、老翁は此処は山中の仙境なので人が来る場所ではないと答えた。それから、老翁は大海人皇子の顔を眺めると、両眼に尊い印が顕れているとして一人娘を授け、役に立てるように傍に置いて欲しいと言った。そこで大海人皇子は素性を明かし、大友皇子との合戦に向かうという事情を話すと、老翁は驚いて五十鈴川の上流に鎮座する天照大神に戦勝祈願するように勧めて、自ら道案内を買って出た。

こうして老翁は大海人皇子の道案内を務めて道を進んでいると、急に大雨が降ってきて鈴鹿川が氾濫し、渡ることができない有様になってしまった。すると、どこからかニ頭の鹿が現れて老翁と大海人皇子に頭を下げたので、二人はこの鹿に乗って川に入っていくと、易々渡ることができた。そして伊勢大神宮の背後にある岩窟に辿り着き、そこで金銀や水銀などの軍資金を授けられた。また、大神宮で戦勝祈願すると天照大神から"戦は必ず勝利する"といった神託を得られた。

この後、鈴鹿川を会鹿川(あうかがわ)と呼ばれるようになり、大友皇子との合戦の中で各地で神の使いの援助を受けて勝利することができたという。後に人々は、この老翁は鈴鹿山の神だったと言うのようなり、大海人皇子は天武天皇として即位した後に老翁の徳を讃えて鈴鹿山に鈴鹿権現を祀ったといわれている。

片山神社の由緒(三重県亀山市)


片山神社の創建年代は不詳とされるが、元は鈴鹿峠の三子山(鈴鹿嶽、武名嶽、高幡嶽)を神体山として、鈴鹿嶽に瀬織津姫、武名嶽に伊吹戸主、高幡嶽に速佐須良姫 という3神を祀っていたという。それから火災や水害に遭って度々遷座し、後に倭姫命を祀る鈴鹿社と合わせて4柱の神を祀る1社となり、永仁5年(1297年)に現地に遷座したとされる。その後、坂上田村麿・天照大神・速須佐之男命・市杵島姫命・大山津見神の5柱の神を祀って今の形になったとされる。

なお、片山神社の鎮座する鈴鹿峠は昔から交通の要所であったため、鬼や盗賊に関する伝説が多く残されている。そうした伝説の中で片山神社の縁起に関わるものとして「大海人皇子が壬申の乱の際に老翁に助けられたことで鈴鹿権現を祀った」というものや「坂上田村麻呂が立烏帽子と戦った後に夫婦となって二人で鈴鹿山の鬼神を退治したので、二人が亡くなった後に付近の里人が立烏帽子を鈴鹿権現として祀り、田村麻呂を田村堂に祀った」というものがある。

田村神社にまつわる昔話(滋賀県甲賀市)


平城天皇の御代、鈴鹿峠に立烏帽子という女鬼が棲み着いた。立烏帽子は変幻自在の神通力を持ち、美女に化けて鈴鹿山に巣食う凶賊を手懐け、徒党を組んで鈴鹿峠を通る旅人から略奪していた。当時、鈴鹿峠には鏡肌岩という表面が鏡のようになった岩があり、立烏帽子は普段からこの岩を鏡として使っていた。また、旅人が岩に姿を映して覗き込んだところに手下を放って襲わせて、身ぐるみを剥ぐというのが略奪の手段であった。

立烏帽子は旅人から略奪するのが常だったが、やがて公家や高官の行列にまで襲いかかるようになったので、この話は天皇の耳に入り、時の将軍・坂上田村麿に立烏帽子討伐の勅命が下った。そこで田村麿は まず清水寺に戦勝祈願をした。すると、田村麿は観世音菩薩の霊験を賜ることができ、軍勢を整えて鈴鹿山に向かった。

軍勢が鈴鹿峠の近くに差し掛かると荘厳な館が見え、そこに近づいてみると中から絶世の美女が現れた。その美女は軍勢の男たちを惑わせたり、目の前に出たり消えたりして翻弄したので、兵たちは怖気づいて一斉に逃げ出してしまった。しかし、田村麿は少しも騒がずに、扇を振りかざして「我に観世音菩薩の味方あり」と一喝すると、兵たちは落ち着きを取り戻して体勢を整えた。

そこで、田村麿は矢を一本取って立烏帽子に狙いを定め、観世音菩薩に必中祈願して矢を放とうとすると、立烏帽子はたちまち降参の意を示して命乞いをしたので、田村麿は立烏帽子に今までの悪業を悔い改めるように言って、その矢を天空に向けて放った。この時、大同2年(802年)2月18日で、田村麿が天空に放った矢は今の田村神社の場所だったという。

この後、立烏帽子は安らかな人間となり、田村麿と結ばれて鈴鹿御前と称されるようになった。また、田村麿は武人として益々活躍し、東北の蝦夷平定を成して征夷大将軍に任じられた。そして、死後に田村神社に祀られることになった。

山鉾「鈴鹿山」の由来(京都府京都市)


京都祇園祭の山鉾のひとつ「鈴鹿山」は、鈴鹿権現が伊勢国の鈴鹿山で道行く人々を苦しめた悪鬼を退治したことに由来している。鈴鹿権現は、大海人皇子が鈴鹿峠を越える時に老翁と鹿に助けられたため、天武天皇として即位した後に老翁の徳を讃えて祀ったことに始まるとされる。

現在は片山神社に祀られているとされ、その主祭神が瀬織津姫命なので、この瀬織津姫命を鈴鹿権現として、金の烏帽子をかぶり、大長刀を持った女人の姿で表しており、後ろの松には鳥居・松が飾られ、木立と宝珠を描いた絵馬が付けられている。また、この絵馬は巡行後に盗難除けの護符として授与される。